大学の学費は親が払わなければならないのか?
大学無償化に関する、専門家会議が進んでいます。
今年中には骨子がまとまる予定ですが、子育て世代にとっては家の次に高い買い物といわれる大学進学費のゆくえは気になるところです。
大学無償化は「出世払い方式」
まず、初めに断っておきたいのが、現行の自民党案の「大学無償化」は、「出世払い方式」であり、厳密にいえば無償ではありません。
年収が1100万円未満の世帯の子どもを対象に、授業料として、国公立大学の場合は年間54万円を、私立大学の場合は70万円、もしくは88万円をいずれも無利子で貸与し、卒業後、毎月、課税所得の9%を返還してもらうなどとしています。
在学中は費用は発生しませんが、所得の9%を返済に充てる、という案のようです。
また、住民税非課税世帯に対しては「出世払い方式」ではなく、減免措置(国立大は全額免除・私大は平均授業料を勘案し、一定額)が検討されています。
仮に、上記の設定がそのまま適用されるとすれば、私立大学を4年で卒業した場合、最大で88万円×4=3,520,000円を返していくことになります。
すごくざっくりと、初任給160,000円、ベースアップ5,000円、5年ごとに職能給20,000円と計算してみても返済までに15年かかります。
月給 | 月額返済済額 | 年間返済額 | 累計返済額 | |
1年目 | 160,000 | 14,400 | 172,800 | 172,800 |
2年目 | 165,000 | 14,850 | 178,200 | 351,000 |
3年目 | 170,000 | 15,300 | 183,600 | 534,600 |
4年目 | 175,000 | 15,750 | 189,000 | 723,600 |
5年目 | 200,000 | 18,000 | 216,000 | 939,600 |
6年目 | 205,000 | 18,450 | 221,400 | 1,161,000 |
7年目 | 210,000 | 18,900 | 226,800 | 1,387,800 |
8年目 | 215,000 | 19,350 | 232,200 | 1,620,000 |
9年目 | 220,000 | 19,800 | 237,600 | 1,857,600 |
10年目 | 245,000 | 22,050 | 264,600 | 2,122,200 |
11年目 | 250,000 | 22,500 | 270,000 | 2,392,200 |
12年目 | 255,000 | 22,950 | 275,400 | 2,667,600 |
13年目 | 260,000 | 23,400 | 280,800 | 2,948,400 |
14年目 | 265,000 | 23,850 | 286,200 | 3,234,600 |
15年目 | 290,000 | 26,100 | 313,200 | 3,547,800 |
途中、出産育児などで収入が減る、転職のために一時的に無給になるなどのことがあれば、返済期間はさらに長くなります。
これに加えて貸与型の奨学金などを受ければ、さらに返済額は多くなります。
それでいて、子どもが生まれれば今度は子どもの教育費が・・・、となりなかなか世知辛いですね。
この「出世払い方式」、本当に良いものなんでしょうか。今までの無利子奨学金と何が違うの?という疑問が当然沸いてきます。
大学の費用は誰が払うのか?
私自身も、いまだに奨学金を返しています。無利子奨学金を月額51,000円で借りていたので、4年間で2,448,000円です。未だにじっくり返済中です。我が家の場合、妻が有利子の奨学金を借りていたので、そちらを優先的に返済しています。
無利子の奨学金を借りるには、一定以上の成績でないと無理、という要件がありますが、わりと大学生活適当に過ごしていてもまぁ大丈夫でした。
大学にいた頃は、当たり前のように学費も生活費も親に頼りきりだったのですが、そもそも大学の費用は親が払わなければいけないんでしょうか。
もし、大学の学費がタダであれば、親は子の学費を負担することなく、生活の扶養だけで十分になります。また、18歳という年齢に限らず、学びなおしやキャリアアップを目的とした就学も可能になり、学ぶ機会が広がり、学生の多様化は学生どうしの学ぶ意欲も高めます。
何より、大学までの期間の教育費用を親が負担することは、親への依存度を高めます。それは自分自身が未熟であるときはプラスの効果がありますが、親が衰弱し始めたとき、今度は親が子どもに依存する効果も高めてしまいます。大学まで行かせてやったんだから、親の面倒ぐらい見ろよ、というやつです。
つまり、親子間での扶助が社会的な前提となっているため、親の介護の責任を子どもが重く負うことになってしまうのではないか、という仮説が成り立ちます。これは、介護の社会化を妨げるもので、あまり好ましくありませんし、介護段階においても格差を生じさせるものです。また、老後資金が子の大学進学費用で目減りすることもまた事実かと思います。
このあたりの議論は、大岡頼光『教育を家族だけに任せない』がうまくまとめています。
この本では、主にスウェーデンの事例を取り上げ、大学生をそもそも親から独立した「成人」とみなした奨学金制度の確立の事例を紹介しています。
スウェーデンでは、大学の学費は無料ですが、加えて返還義務を伴う奨学金が充実しており、それらは本人の経済状況のみから判断されます。
また奨学金の金額も多く、生活費として親から独立して生計を立てることが十分可能となっています。
学生個人と学費を結びつける仕組み
日本において、現在検討されている学生ローン制度は、オーストラリアのHECSと呼ばれる制度をモデルにしています。
HECS を利用できる学生は、まず自分自身の納税者番号(マイナンバー)を税務署に申告します。在学中は、その学生の教育費用は政府により肩代わりされます。
学生は卒業後、一定程度以上の年間所得を得るようになった時に初めて年間所得のうちの数%を「学生貢献分」として政府に返済する義務を負います。
この時、HECS 利用申請時に税務署に申告した納税者番号に基づき、年収のうちから返済相当額が差し引かれます。
(「諸外国における奨学制度に関する調査研究及び奨学金事業の社会的効果に関する調査研究」報告書:文部科学省)
HECS制度においては、大学入学時の機会費用は発生しません。
現行の奨学金制度は入学金・授業料などを支払った後に支給されるものですが、その場合一時的にも親が肩代わりする必要が出てきます。
返済が就職後から始まる点は、あまり現行のものと変わりませんが、本人所得に連動させることによって、本人にその義務を負わせることになります。(現行の奨学金は、実質的に親が審査を受け、お金を借りて返す制度となっています)
学生個人と学費を直接結び付ける、という点において、この制度であれば実質的に親が払うのではなく本人が大学の学費を払う、ということになります。
親の負担はなくなるのか?
とすれば、所得連動型学生ローン制度(大学無償化)が施行されれば、親の負担は無くなるのでしょうか?
そんなに、甘くねえよ、と現実を突きつけるのが次の表です。
下宿・アパート暮らしをする大学生の生活費・支出を表したものです。
区分 | 下宿、アパート、その他 | |||
国 立 | 私 立 | 平 均 | ||
支出 | 授業料 | 503,100 | 1,115,900 | 883,500 |
その他の学校納付金 | 8,000 | 182,500 | 116,700 | |
修学費 | 49,800 | 47,800 | 48,000 | |
課外活動費 | 52,300 | 35,100 | 39,700 | |
通学費 | 10,000 | 21,900 | 18,000 | |
小計(学費) | 623,200 | 1,403,200 | 1,105,900 | |
食費 | 295,400 | 269,000 | 276,000 | |
住居・光熱費 | 492,900 | 455,500 | 466,000 | |
保健衛生費 | 34,100 | 38,100 | 36,800 | |
娯楽・し好費 | 141,100 | 156,800 | 151,100 | |
その他の日常費 | 156,800 | 169,900 | 165,200 | |
小計(生活費) |
1,120,300 | 1,089,300 | 1,095,100 | |
計 | 1,743,500 | 2,492,500 | 2,201,000 |
(※学生生活に関する各種調査 - JASSOより)
生活費だけで約100万円かかりますね。。
今後、18歳成人が適用されるかと思いますが、成人の大学生に関しては子の扶養義務があるという判例もあるようで、やはり生活援助のための仕送りは必須なのかと思われます。
ただ、よく言われるような、子ども一人につき2000万円かかる、みたいなのは多少軽減されるのではないか、と思われます。
それでは、こうしたツケ払い制度は、教育格差を是正し、貧しい世帯の大学進学を促す効果があるのでしょうか。
そろそろ、長くなってきたので、ここで一旦区切りますが、オーストラリアの調査によるとその効果はあまりみられないとのことでした。
その理由は、次回にします。
パートの仕事が1年続きました。
いまの職場でパートで働き始めてちょうど1年経ちました。
「転機」というほど、突然のものではなく、かなり段階を踏んで慎重に始めたものなので、ここまで無理なく続けられているのだと思います。
上の記事にも書きましたが、いまの職場の素敵なところは、
・家から自転車10分(満員電車は吐くので無理)
・スーツ無し(ネクタイも吐く)
・1日4時間、週5日(労働保険以上扶養範囲内)
・主婦多し。(理解者が多い)
・事務職(体力的にこれしか無理)
というところです。
特に、メンバーの関係性が非常にいいのが助かっています。基本、シュフどうしの会話なので、家事育児に有益な情報もたくさん得られます。
社内のシステム変更などが立て続けに起こったこともあり、PCが使える、というだけでかなり重宝がられましたし、新システムに合わせていろんなレポートの様式を整えたりと面白いこともやらせてもらえて、スキルも上がりました。
いわゆる「小売」業界にいるので、主夫としての生活と地続きなのも、また仕事が面白い要因なのかもしれません。
消費者むけの「ザ・商売」という業界は初めてでしたが、消費者としての自分と、商売人としての自分の複眼的な視点で世の中の商品を見ることができるのも良いものです。
家事に応用できそうな部分は、またここでも紹介していきたいと思います。
最近は、少しずつ起きていられる時間も増えたので(前はずっと疲れて寝てました)、ブログもちょくちょくと更新していきます。はてなブログPROにしたおかげで、無事凍結状態だったアドセンスの報酬も回収できそうです。
パートの仕事を固定収入として維持しつつ、プラスαの変動収入をもう少し増やせられたらなあ、とは思うのですが、なかなか簡単にはいかないですね。
副収入的なことも、またそのうち書きたいと思います。
そんな感じです。今は。
(ずっと以前のものはこちら。)
子連れ現代アート<KYOTO GRAPHIE>
会期末ギリギリでしたが、娘と一緒に、京都で行われている国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」に行ってきました。
朝早くから、「京都にアートを見に行くぞ」と声を掛けて、さすがに微妙な反応をする娘を説得するのに大変でしたが、「好きなもの食べていいぞ」ということで取引成立。
ちなみに「花まるうどん」で大変満足していただけました。
京都新聞ビル 印刷工場跡
まず向かったのが、こちら。
京都新聞ビルの地下、印刷工場跡を利用したギャラリーです。
廃工場の退廃的な雰囲気とアンマッチした、消費社会の物質主義的な贅沢な暮らしを写した写真が中央に配置されています。
印刷工場跡の雰囲気が素晴らしいです。黒ずんだインクの跡、むき出しの配線やダクト、地下空間とは思えない天井の高さなど、圧倒されます。
娘にとっても、良い社会見学になりました。
そして、こちらは京都新聞社のロビー。使い込まれたイームズのシェルチェアが、赤いフロアに映えています。
ここで、娘は子ども用のスタンプラリー台紙をもらいました。無料のわりに、しっかりした作りで、中には解説やクイズも書かれています。ここから、俄然娘のテンションが上がります。育児世代にとっては、大変ありがたい心配りです。
三三九 旧氷工場・旧貯氷庫
もともと、中央卸市場に供給するための大量の氷を製氷・貯蔵するための工場・倉庫として使われていた場所が、ギャラリーとなっています(※三三九は現在の所有会社の名称)。
会場は、卸市場を抜けた先に、あります。
こちらでは3作品、楽しむことができます。
洪水災害に見舞われた後の世界各地の街の様子を、並行した5枚のモニターで映し出す、ポートレート映像作品。
異端な、アウトサイダー達をモノクロ写真に収めた作品。
日本の「働く人」を原寸大で図式化したように撮影した常設作品。
そのどれもが、卸市場と廃墟化した工場の空間とうまく融合させて展示されています。
正直、写真好きにはたまらない空間で、素晴らしい写真が展示されています。こうした癖の強い場所では、空間の持つ力に圧倒されてしまうのですが、作品の放つ力も負けていません。
ダンジョンのような場所で、娘は少し怖がっていましたが、めったに来られる場所でもないので、その雰囲気は楽しんでいたようです。
他の会場もスタンプラリーの勢いで、駆け回りましたが、この二つの場所がとにかく圧巻でした。
現代アートの分からなさ
現代アート、というかそもそも「アート」には分からなさが付きまといます。
ただ、子どもにとっては、アートだけでなく新しく訪れる場所、すべてがはじめてでわからない場所です。
アートの前では、大人も子どもも等しく同じになれるような気がします。もちろん、置かれた文脈や場所・モノとの関係性から、作品を読み取る力は大人の方があるかもしれませんが、分からないものを体験する、という点においては同じです。
日常の中には予定調和なストーリーや「わかりやすい」かわいさ、美しさ、カッコよさが溢れていますが、分からないものと向き合う機会は、積極的に出会わなければ得ることができません。
幸い、こうしたアートは真っ白な静かな美術館の空間ではなく、体験型のインスタレーションとして、開かれた場所にあることが多いので、比較的子連れに向いています。
以前も、瀬戸内国際芸術祭に子連れで行きましたが、楽しかったです。
と、アートに限らず、音楽その他のイベント含め、こんな感じでいろいろ理屈をつけては、父ちゃんの道楽に子どもを連れまわしています。 子どもにとってもプラスの影響になっていればそりゃいいけど、全くなってなくてもいいかな、と思っています。
育児・家事が中心の生活だけど、無理してでも、やっぱり非日常を楽しみたいのです。
専業主婦前提社会に苦しんでいる私たちは
私たちは「専業主婦前提社会」に苦しんでいる
今週のお題「おかあさん」
さて、『育休世代のジレンマ』でよく知られる中野円佳さんの記事です。
いつのまにか、シンガポールに出られ、現在は海外×育児×キャリアについてのオンラインサロンも開かれているようです。
海外に出てみると、日本の子育ての相変わらずな状況が辟易して見えてくる、というところから記事は始まります。
で、当然の帰結として、「日本の求められてる家事クオリティ、高すぎじゃね?!」というところに行き着いた、というのがこの記事のストーリーです。
そうそう、その通り、と首がもげるほど頷きたいことばかりで、全て正しいのですが、やっぱり3000字程度の記事では物足りないのです。
専業主婦前提社会に苦しんでいる、だけではないからです。
私たちは「仕事至上主義前提社会」に苦しんでいる
「求められている仕事量(時間)多すぎじゃね?!」というのがこちらの前提です。
質よりも量が問われているのがこの前提の根深いところです。
フルタイム勤務であれば男女問わず、多くのサラリーマンは当たり前のように9時の始業に間に合うように出勤し、18時定時として、そのまま帰るにしても家に帰るころには暗くなりますし、多くの人はもっと残業をしているでしょう。
働きつつ育児をする男性の主な悩みの一つが、「イクメンは出世できない」です。
(主に男性の)サラリーマンが朝から晩までフルコミットで仕事に集中している一方で、子育てしながら仕事をしている女性・そして一部の男性は、会社においては同等の条件で成果主義に基づき、その貢献度を評価されることになります。
どちらが条件的に有利かは一目瞭然かと思います。
実際に、夫婦共に正社員で働こうとすれば、妻が専業主婦やパート勤務の家庭と異なり、夫が仕事の時間を減らして、育児を分担しなければなりません。
そうは言っても、現状では、男性の働き方は、週5日40時間は「最低限」で、それ以上が「普通」に求められており、定時にすら帰れない父親がほとんどです。
男性の育児参加は、まさに「言うは易く行うは難し」で、共働き世帯の母親には過剰な負担がのしかかっています。
こちらは、男性学の研究者である田中先生の記事の引用です。
現状で普通の能力しかない一般的な男性が仕事も育児も効率的にこなせる理想的な「イクメン」になることの難しさを滔々と語っています。
当たり前ですが、子どもが生まれたら急にすごく仕事ができるようになって、短時間で成果が上がるようになる、なんて都合のいい話はありません。
働く時間が減れば、当然、その分だけ成果は落ちます。
育児で責任を果たす以上、これまで男性に求められてきた業務量をこなし、同じだけの成果を上げるのは無理です。
フルタイムの共働きが増えつつある現在、フツメンにできる仕事と家庭の両立とは何かを考えることが求められています。
世知辛いですが、これもまた育休世代のジレンマの一つです。
さて、女性は専業主婦前提社会に苦しみ、男性は仕事至上主義前提社会に苦しんでいます。
じゃあ専業主婦や仕事一筋のサラリーマンは苦しんでないかと言われれば、決してそんなことないですよね。
専業主婦の人は本当は働きたいのにその機会を奪われ、それこそハイクオリティな家事・育児を求められてきましたし、仕事一筋の環境ではストレスも多く、長時間労働による過労死はずっと以前から問題視されています。
「メイド」も誰かの犠牲を前提にしている
それでいて、一般的な子育て世代である30代の平均年収は、約450万円です。
平均年収ランキング2017(年齢別の平均年収) |転職ならDODA(デューダ)
冒頭の記事に戻りますが、それで、シンガポールのメイドのはなしをされても、はぁ・・なわけです。メイドを雇うだけの年収を確保できる層はわずかで、あるいは格安で雇うには、そのメイドが低賃金でなければなりません。
保育士の賃金が安い安い、とさんざん言われていますが、育児のアウトソース先としては本当に格安で、日本人の平均年収でもなんとかなる金額です。しかも年収に応じてさらに安くなります。
メイドを一家庭が雇うということは、メイドの雇用形態としてとても不安定なものです。雇用期間が短く、契約も個人間では曖昧になり、仲介が入れば割高になります。かつ、日々の業務はルーティンワークであり、給料の上げ幅も多くは見込めません。
質の高い「丁寧な家事」を求めないのであれば、長期で雇うよりも、定期的に安いメイドに切り替えたほうがお得です。
メイド自体が、自分より低収入な誰か、あるいはパートで働く誰かを前提としたものであり、その前提を超えたサービスが実現されるにはまだ時間がかかりそうです。
思うに、事態はもっとずっと深刻なのではないか?ということです。
皆でもっと楽になろう
皆でもっと楽になろう、は正しいのです。
手作りのお弁当じゃなくても、総菜詰めるだけでいいし、冷凍食品もおいしいものがたくさんあります。家が多少散らかっててもいい。モノがあふれてて、子どものおもちゃはガラクタみたいな菓子玩具でもいい。なるべく家事は自動化すべく、ルンバ、洗濯乾燥機、食洗機、新たな三種の神器を使えばいい。
でも、それだけでは圧倒的になにか足りないのです。"take it easy."は大好きな言葉ですが、それだけで解放されるほど単純なものに私たちは苦しんでいるんでしょうか。
女性と家庭の問題ではなく、男性と働き方の問題でもある、というのは先に見てきたとおりです。そして、他の誰かに犠牲を負わせるのではなく、「皆」で楽にならなければなりません。
では、どうすればいいのでしょうか。
ステレオタイプへの服従か、ロールモデルの欠如か
「〇〇前提社会」という〇〇に苦しめられている社会で、苦しまないように生きるには、徹底的に〇〇の側に立つか、苦しまないための新しい生き方を探すか、のどちらかです。
前者は、「ステレオタイプへの服従」という困難があり、後者は「ロールモデルの欠如」という困難があります。前者は「保守」と呼ばれ、後者は「リベラル」と呼ばれるものです。
「どんな生き方をしてもいい。どちらか好きな方を選べ」と突き付けられたとき、実際には多くの人は戸惑ったまま選択できず、その両方に苦しめられるのではないでしょうか?
時折、そうした苦しみが炎上という形で、姿を現します。「牛乳石鹸」然り、「あたしおかあさんだから」然りです。
ずる賢く生きる
正直なところ、個人レベルでどうこうできるような話ではないのかな、とは思いますが、制度的なことはそれこそ、中野さんの今後の分析に期待したいところです。
それでも主夫の戯言として、個人レベルの解決策を提示するならば「チート技」を使う、つまり「ずる賢く生きる」ではないでしょうか。
たとえば、専業主夫って生き方は、なかなか便利です。
専業主婦前提社会に適応しつつ、新しい生き方として男性稼ぎ手モデルからも脱却することができます。従来からの規範からは解放されつつ、それなりの暮らしをそれなりの形で送ることができる、一つのチート技だと思います。
いまの自分の生き方を完全に肯定するわけでもなく、なるべくして行き着いたところですが、誰もが流れるように生きていて、今にたどり着いています。中野さんのように、海外に住む、というのもまた一つの技ですが、それも自身の意思というよりも流れるように行き着いたものだと思います。
一方で、彼女なりのやり方で、オンラインサロンで海外×女性×働き方という単なる駐在妻のコミュニティに囚われない要素を+したコミュニティを形成しています。これもまた、巧みな手法です。
海外に住む、集まって住む、パラレルキャリアをつくる、拠点を複数つくる、他にもずる賢く生き抜く技は、私の知らないところにたくさん転がっているのだと思います。
私たちは、もっとずる賢く、生きていきましょう。
テレワークは長時間労働を招くのか
最近、在宅でテレワークをしたくて仕方がないパート社員の私です。
今やってる仕事の8割が、データさえあれば家でもできる仕事だからです。
しかし一時期に比べ、『テレワーク』については話題が少なくなりました。
その働き方が本当に生産性を上げるのか、 あるいは業務上のメリットが大きいのか、など様々な観点から疑問が投げかけられ、一部の導入企業は廃止、あるいは見直しがなされているからです。
フランスでは週2日まで、としている企業が多いようです。
週5日の全日をテレワーク化した場合には社員の孤立という問題が発生し、テレワークによって生じるはずの生産性向上が逆に失われる。テレワークによる生産性向上のピークは、テレワークが週1~2日である場合に確認される。
というのが理由のようです。
実際に、テレワークは非効率でかえって生産性を下げてしまうのでしょうか?
(※こないだそれっぽい写真を撮る機会がありましたので。snapmartさん、ありがとうございますhttps://info.snapmart.jp/seller_event02/)
テレワークは長時間労働を招くのか?
リクルート研究所が2017年11月に『テレワークは長時間労働を招くのか?』というレポートを発表しています。(https://www.works-i.com/pdf/171120_wr12_06.pdf)
こちらの内容を端的にまとめると、「そもそも、日本企業が全体的に長時間労働体質なので、テレワークしたほうが長時間労働からは解放されやすい」です。
つまり、長時間体質が解消された場合、テレワークとの差は無くなるかテレワークの方が非効率、という結果になる可能性が高い、というところです。
日本以外のほとんどの国では、テレワーク(在宅労働者)のほうが労働時間は長く、ただ通勤時間の削減等によりワークライフバランスはとりやすくなった、という結果が出ています。ワークライフバランスの観点からは好ましいが、生産性の観点で言えば好ましくない、という悩ましい結果です。
また、海外の場合、女性の家事労働時間が増えてしまうことを問題視しています。
一方、このリクルートワークスの調査結果では、日本においては、特に男性の場合に家事労働時間が有意に増加しており、これは男性の家事参加の観点で好ましいことと受け取っています。
その男性の配偶者の家事時間がちゃんと減って、家計的に、あるいは幸福度としてプラスになってればいいのですが。。
日本と海外で大きく差が出るのは、労働慣行の違いも大きいものと思われます。チーム重視、年功序列、集団的規律を重んじる日本企業的な職場では、先に帰りづらかったりしますよね。テレワークであれば、そうした集団心理から解放される、というのも長時間労働にならない一つの要因かもしれません。
また、こちらは、あくまで制度的なテレワーク実施者を対象としているため、日本でテレワークを制度的にOKとしている(比較的ホワイトな)企業というバイアスが掛かっています。
テレワークを制度として導入する場合には,長時間労働に陥りがちなテレワークをモニタリングして抑止するような労務管理が同時に成り立っている可能性を示唆している。
テレワークを導入している企業では的確なモニタリングと制度運用によって、適切な労務管理ができている、ということですね。そうではなく、持ち帰り残業・サビ残的なテレワークだと、生産性向上といった期待はできないでしょう。
テレワークのガイドライン
テレワークを導入・実施する場合の労使間の契約や運用ルールの決め方については、厚生労働省が2018年4月にガイドラインを策定しています。
労働基準法や衛生法などの適用、労災についてなど、かなり細かい運用面でのルールが書かれているので、とても参考になると思います。
その中でも、長時間労働への対策の項目などは、特に注目すべきところです。
また、テレワークを行う場合、モバイル端末あるいはパソコンなどの通信機器がほぼ必須になるかと思いますが、こうした通信上のセキュリティのガイドラインについては、下記が参考になります。
セキュリティあんまり詳しくないので、ほとんど読んでませんが、導入事例などもいろいろ書いてあります。
テレワークと通勤
ちなみに、上記のCSAJの資料にあったのですが、都道府県別の通勤時間ワースト順に並べた表が下記のものです。
1 | 神奈川県 | 1時間45分 |
2 | 千葉県 | 1時間42分 |
3 | 埼玉県 | 1時間36分 |
4 | 東京都 | 1時間34分 |
5 | 奈良県 | 1時間33分 |
6 | 大阪府 | 1時間25分 |
7 | 兵庫県 | 1時間21分 |
8 | 京都府 | 1時間20分 |
9 | 茨城県 | 1時間19分 |
9 | 愛知県 | 1時間19分 |
当たり前ですが、テレワークによって在宅就業が可能であれば、これらの時間は無くなります。
それだけでも、かなりメリットありそうです。
実際に、東京圏の全ての労働者の通勤時間を勤務時間に充てれば8.6兆円の経済効果がある、という試算もあります。(http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/pdf/macro/2018/kuma180426ET.pdf)
長時間通勤とテレワークについて焦点を当てたレポートもあります。これによれば、通勤手当という賃金プレミアムがありますが、それ以上に通勤時間を苦痛に思う人が特に女性に多い、ようです。満員電車は誰にとっても苦痛ですが、体力の少ない女性、痴漢の被害に逢いやすい女性、がそれを苦痛に思うのは尤もな話です。
運用までのハードルの高さ
総じて、いろいろ見てみると、テレワークを導入・実施するまでに、そもそも越えなければならない高い障壁がたくさんあります。
そもそもオフィスワークにおける労基法の順守、適切な労働時間管理、から始まって、リモートに限らずセキュリティ面の整備、タイムマネジメントツールの導入、そしてテレワークを運用するにあたってのルールの整備、と。
単なる制度導入というだけの問題解決ではなく、会社全体を巻き込んだ「働き方改革」プロジェクトとなるため、その導入が難しく時間がかかるものになってしまいます。
そんなことごちゃごちゃ言わずとりあえずやろーよ、的なノリではできないのがネックですね。失敗して廃止にしたところも、おそらく上記のどれかが欠落していたのだと思います。
そんなわけで、いろいろ調べてみたものの、パートでもそんな働き方ができるようになるのは、まだまだ先だろうなーという結論です。
まあ、今の職場は自転車で10分のところなのですが。(←雨が降ったら休みたい。)
ニンテンドーラボは小学1年生でも作れる
皆さん、遊んでますか?Ninntendo Labo。
さて、我が家でもさっそく発売日にヤマトのお兄さんが届けてくれたので、漏れなく楽しんでやっています。
ニンテンドースイッチのその後
ニンテンドースイッチを買ったのが、約3か月前なのですが(過去記事参照) 、『すみっコぐらし』でもやらせて平和に毎日を過ごす・・、はずが、3か月間スプラトゥーン2しかやってません。なんなんでしょう、このゲームの中毒性。
幼少期にゲーム無しの環境で育ち、ゲームに全く関心を示さなかった妻が、毎晩のようにスプラトゥーン2をしています。
はじめはジャイロ操作に慣れなかった娘も、バンバン敵をローラーで叩きのめしています。立派に育ちました。
小学校低学年女児向けコンテンツの空白
よく指摘されるところなのですが、小学校低学年の女児向けコンテンツは、空白地帯となっています。
幼児のみんなが大好きなプリキュアも6歳以降はその支持率は低下して、脱プリキュア化します。
一方、女児向けのコミックなどは恋愛要素が多く、それらを理解し好むようになるのは高学年以降となります。
(別稿でも紹介する予定なのですが)『女の子は本当にピンクが好きなのか?』の著者、堀越英美氏は次のように述べています。
長女に言わせると、クラスの女の子たちは『プリキュア』シリーズ、『アイカツ!』といった女児向け作品は卒業したものの、恋愛中心の少女マンガはまだ早く、小学生向けのコンテンツはたいてい男子主人公モノばかりなのでいまいち入り込めず、コンテンツ難民状態にあるらしい。小学2年生の女の子たちが語り合える作品は『妖怪ウォッチ』ぐらいなのだそうだ。
p.123 『女の子は本当にピンクが好きなのか?』(2016年)
まあ、まだプリキュアも見てるのですが、今のところ空白期間はスプラトゥーン2で埋まっています。最近はイカの絵ばっかり描いてきて、学校の先生を困らせてきているようです。図工の時間が楽しみですね。
小学1年生でも工作できる丁寧さ
ネットでは、もっぱらtoyconガレージと呼ばれる自由工作・プログラミングが話題で、大人たちが子どもそっちのけでいろんな工作をしているようです。
一方、小学1年生の娘にとっては、まず「一人だけでキットの工作を完成させる」ことが目標となり、また達成感につながっています。
ダンボールだけでバネや手回し車、ハンドルや鍵盤を作り、遊べる玩具のカタチにする、というだけでも、1年生にとってはかなり難易度が高く、ひとつひとつの工作にだいたい2~3時間ほどかかります。
そこで、何日かに分けて完成させることになるのですが、それでも6歳の子どもの集中力を持続させ、大きな失敗もさせることなく完成させてくれる『モノづくりの丁寧さ』が随所に感じられます。
制作過程を説明した動画が、自由な角度から観察でき、何度でも戻って工程を確認できることや、ダンボール自体の加工がかなり精密で分かりやすいこと、など直感的で分かりやすいデザインが、デジタル面でもマテリアル面でも完成されています。
一通り、すべてのトイコンを完成させましたが、バイクだけは、まだリアルで自転車に慣れていない娘にとっては難しいようでした。。
「分かる」「発明する」はこれから
小学1年生の娘にできるのは「作る」「遊ぶ」「飾る」までで、「分かる」「発明する」は次の段階かな、というところです。
「分かる」も、とても分かりやすい解説で説明してくれるのですが、それを「発明」まで応用させる力はかなり高度な思考力が試されます。
なるべく親がそばで一緒に見ながらやっているのですが、「分かる」の説明は飛ばしがちになります。トイコンを作る過程で、余った細かいパーツは装飾か発明かに使われるのかと思いますが、専ら装飾に使われることになりそうです。
発明は、若干親のセンスが問われるところもあると思いますが、そのうち工作事例集みたいなのも出てくる気がします。オリジナル作品を発明するのは難しくても、これからもいろいろ楽しめそうですね。
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田舎の高校から都会の国立大に進学する話
こちらの記事にぶら下がって、書いているブログをいくつか見て、私も少し思うところはあるな、と感じたので、思うままに記します。
何に絶望したのか?
この著者が絶望したのは、田舎では「想像力が奪われている」という事実でした。
「大学」というものがあるということを想像できる環境。文化、教育、教養といわれるものへのアクセスが田舎には全くなかった、という事実です。
そして、自分がここにいるのは努力ではなくただの偶然の賜物でしかない、ということもまた十分に絶望に足るものだったのだと思います。
田舎から抜け出すには大学入試がおそらく最大のチャンスだが、しかし、その可否は中学時代にすでに決まっている。
なぜなら、「都会には『大学』なる組織が存在し、自分も努力次第でそこへ入学するチャンスがある」という事実を教わることができるのは、中学で教師の言われるままに学区トップの高校に進学した者だけだからだ。
著者は悲嘆にくれたまま筆を走らせているので、表現が少し極端ですが、中学で成績上位でないと国立レベルの大学への進学が難しいというのは事実かと思います。
なお、文中の「底辺」とは小中学校時代を卑下したものと読めます。
『東大に入って絶望した田舎者』阿部幸大氏のウソを元「底辺校」教員が指摘 - Togetter
あの文章、底辺と呼んでいたのは小中学校の話と読めるのだけど。
2018/04/28 06:25
以下は自分語りなので、やや退屈かもしれません。
私のはなし
私は、岐阜の世帯数2000に満たない小さな町に育ちました。
著者と同年代で岐阜のど田舎で育った私も、中学時代に将来のこと、進学のこと、そうしたものを考えるような余地、想像力は全くありませんでした。
私自身は、小学校の頃はクラスでビリな成績だったのですが、親に言われるままに塾に行っていたら、成績がメキメキ上がって、いつのまにかそれだけが取り柄になっていました。
私が中学に入ると同時に兄が京大に入学したため、いわゆる文化資本的なものは、ほとんど兄からの受け売りでした。そういう世界があるのだ、ということを知る唯一の窓口でした。
親はそれほど勉強にうるさく言いませんでしたが、塾通いのおかげで公立の進学校に進んでも成績は保てました。なんとなく兄も京大だから自分も、と考えていて、京大すげー難しい、と気づいたのは高校3年生のときで、あえなく浪人しましたが。
1年間学校も行かずに、受験勉強だけをする、というのは思った以上に長く、いろんなことを考えさせられるものでした。本を読む時間も十分にあり、大学入学時に必要な文化資本レベルのものは習得可能でした。
私は文系学部出身ですが、中学のころから、本を読むのは好きでした。本好きであることが周りに知れ渡ると、自然と本好きの友達(主に女の子)が集まってきて、交流できるのが嬉しくも楽しかった、というのが長く本と付き合うきっかけですが。
ともかく、受験時には余裕で合格できるレベルにまで学力は上がり、おかげで入学後も気後れすることなくそれなりに楽しく過ごせました。
簡単な私事の紹介からも、田舎から都会への「アクセス」の鍵が少し見えてくるように思います。
見えている世界の違う友人
私は日々の自分の生活を見ることに精一杯なのですが、同じ田舎の岐阜から東大・京大に進学した友人たちもまた全く違う世界を見ています。
同じ高校から東大に行ったH氏は、大学卒業後、世界銀行やユニセフなどで働き国際教育学の博士課程として現在もアメリカで学んでいます。
岐阜高専から京大に入ったY氏は、構造最適化の分野で京大の助教として活躍し、海外各地で講演などもしています。
同じように田舎から国立大に進学していても、見えている世界は全く違います。
中学・高校と過ごした環境が特別な何かを与えていたのかは私にはわかりません。でも、彼らがいま見ている世界は、はるか遠くの進んだ専門のその先の世界です。
あるいは、地元で大学に行かなかった友人たちも、また違う世界を見ています。
中学の同窓会で会った友達の多くは工場で働いていたり、現場監督をしたり、トラックの運ちゃんをしていました。女の子の多くは、主婦として子育てに奮闘していました。
それは私が中学のときに見ていたのと地続きの世界で、とても懐かしくどこか親しみのある世界でした。
「同窓会に出てくることのできる人」という意味では、まっとうに人生を送れている人フィルターがかけられていますが、「偶然」の恩恵に預かれなくても、教養を知らなくても、日々の生活を楽しく生きることはできます。
地元にずっと住み続ける、というのは、私の知らない世界の一つです。いろいろな面倒ごとや退屈もあるのかもしれないし、都会の生活を憧れていても叶わなかった、ということもあるかもしれません。
それでも、それで幸か不幸かが決まるものでもありません。少なくとも、私が出会った人たちは幸せそうでした。
「都会」は機会に恵まれている
大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
個人的には、モノや情報の格差よりもコミュニティがないことのほうが大きかった気がする。ちょっと変わった趣味・興味が全く共有できず、大衆化されたものしか話題にならない。
2018/05/02 08:14
こういった話題が熱くなるのは今に始まったことではありません。
2008年~2009年あたりにかけて、多くホッテントリ入りしていた『ミームの死骸を待ちながら』というブログをご存じでしょうか?
この話題が出たとき、真っ先に思い浮かんだのは、このブログの下記の記事でした。
おそらく、彼も同年代だと思いますが、東京を「選択できた」人です。そして、おそらく同じようなことを感じています。彼の文章の方が、直接的な物言いで分かりやすいと思います。
東京にいると機会の数が(文字通りの意味で)桁違いに多いということ。アンテナに引っかかる情報量がそもそも違うし、アクションの選択肢が豊富にある。
ネットにより機会は平等になったと思いきや、むしろネットを活用して情報を得る習慣を持ちアンテナが高い地方の人ほど、機会の不平等を切に感じるのではないかと思う。
習い事を始めるとしたら教室、勉強会やオフ会をやるとしたら参加者が集える場所、バイトするなら勤務地と職種と時給。何か買うにしても、手にとって見ることの出来る大型店舗が重宝する。その全てにおいて、そしてその全てを同時に満たしうる環境として、東京に勝る場所はない。
私が田舎で感じていた不満は、彼と共通しています。全く話題がかみ合わなかったのです。「本」にまつわることだけ話せる友人はいましたが、サブカルチャーな音楽や映画、文化的なものを語れる人はほとんどいませんでした。私自身の知識も相当に軽薄なものでした。
「京都は売れないアーティストに優しい街だ」と、かつて自身も売れないアーティストだったSCRAPの社長が言っていましたが、東京もある意味似たようなところがあり、マイノリティでも集まって生きることのできる場所があり、そうした場所に行けば話の通じる人は必ずいる、あらゆるコミュニティにあふれた街です。
東京で就職したときは、とにかく楽しくていろんなコミュニティに顔を出していました。おかげでできた友達もたくさんいて、本当に仕事と遊びをするにはいい街だと思いました。
再び地方を意識したのは、子どもが生まれてからです。夜の外出も休日の外出もすることができず、物は高く、人も多く、子どもは保育園に入れない。いつのまにか東京にいるメリットを十二分に享受できなくなりました。
「教育」が重要と感じられるかどうか
結局のところ、私は大阪にきて、主夫をしています。
浪人していたとき、もう一つ大きな「偶然」がありました。
とにかく親に申し訳ない気持ちでいっぱいで、一年間は積極的に家事を「手伝う」ようにしました。手伝うというよりひたすら「教わる」というのが正しかったのですが。京都に出て一人暮らしをしても困らないように、という程度の打算的な考えもありました。
そのときのことを今は、本当に感謝しています。私が主夫として全く家事を苦にならないのはそのおかげだからです。
もし、主夫をせず、ひたすら仕事だけをしていたら、私はそのとき親に教わった「家事」を重要なものと感じられなかったと思います。主夫でなくとも、共働きが一般的になり、家事能力の有無が家庭生活の運用上、これほど重要なものである、ということは、とても当時は想定できるものではありませんでした。
同じように、都会の大学に出て、多様な機会に恵まれた人たちのコミュニティに加わり、それらを享受する側にならなければ、それまでの「教育」を重要と感じないのではないかと思われます。
問題は、「教育」が重要なものであると田舎において感じさせること、です。
なにが、平凡な田舎育ちの人を教育に向かわせる「ブースト」となるかは、私の例も、現代ビジネスの例もそれぞれだと思いますし、現状ではそれは偶然でしか得られないものなのかもしれません。
ただ「ブースト」となるような、仕掛けを地方にもたくさん作ることはできるのではないでしょうか。都会の生活を知る人が地方に入ることもまた、その一つでしょうし、夏休みのあいだ中、東京で暮らしてみる、というのも面白いと思います。
あるいは、そうしたものはもう既にあふれているけれど、それに届かない人にどうアプローチするか、というところまで深く掘り下げる必要もあろうかと思います。
この連載企画が(続くのか知りませんが、)そうした動きやイベントを発生させる方向に向かえば、それなりに意味のあるものになるのでは、というところで、また注視していきたいです。
家庭科で習う技術と道徳のはなし
母親の手作り神話
先日、こんな話題がありました。
趣旨としては、家庭科の先生が「ミシンではなく何でも手縫いを」という方針を掲げていて、その理由が「ミシンを使ったら母親の愛情がない」というものだった、というものです。そんな家庭科なら教えないでほしい、とのことです。
私にとっては、ミシンを使って手作りすることすら「母親の愛」思想を感じてしまいますが、ミシンがだめなら、洗濯は洗濯板でしょうか。
発言小町にも、よくありそうなネタですね。
幼稚園グッズ手作りしないと言ったら。 : 妊娠・出産・育児 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
この話題で気になったのは、「母親の手作り神話」と「ミシンは必要なのか?」というところです。
母親の手作り神話は、いろんなところで批判されているところなので、とりあえず置いておきます。
問題は「ミシン」と「家庭科」です。
私も家庭科を習ってきたので、手縫いもミシンもできますが、最近の家庭でミシンがあるというのはいまだに一般的なんでしょうか。そして、「家庭科」では何を教えるべきなのでしょうか。
ミシンのある家庭の割合
幼稚園児をもつ母親の手芸・裁縫活動に対する意識と実態(2015年/日本家政学会誌)というのがありましたので、こちらをまず見てみます。
「幼稚園児の母」対象というやや偏ったサンプルです。8割が専業主婦、対象者数は247人、対象地域は広島です。
ミシンを持っている、と回答した方は76%。かなり多いですね。続く回答でも基礎的なミシン縫いは9割以上ができると答えていて、主に家庭科でその技術を習得した、と回答しています。
一般社団法人 日本縫製機械工業会(統計資料)によれば、家庭用ミシンの生産台数減少傾向にあります。
一応、元データも貼っておきます。(生産+輸入-輸出で国内需要を出しています)
国内生産 | 輸出 | 輸入 | 国内需要 | |
2005年 | 234,947 | 250,590 | 955,821 | 940,178 |
2006年 | 156,631 | 236,059 | 846,165 | 766,737 |
2007年 | 141,190 | 240,400 | 776,368 | 677,158 |
2008年 | 122,120 | 259,891 | 811,148 | 673,377 |
2009年 | 60,067 | 248,110 | 829,936 | 641,893 |
2010年 | 63,393 | 293,302 | 836,858 | 606,949 |
2011年 | 55,813 | 291,511 | 823,548 | 587,850 |
2012年 | 55,387 | 229,816 | 869,862 | 695,433 |
2013年 | 56,411 | 262,651 | 954,308 | 748,068 |
2014年 | 60,422 | 270,322 | 934,474 | 724,574 |
2015年 | 57,421 | 260,127 | 749,124 | 546,418 |
2016年 | 61,680 | 278,626 | 852,334 | 635,388 |
低調ながらも頑張っているのは、やはり入園グッズ需要があるからでしょうか。
ハンドメイド市場がminnneやCreemaなどのフリマアプリの影響で伸びていることも要因の一つかもしれません。
ミシンのある家庭は一定以上あると考えられます。
ただミシンのあるなしにかかわらず、家でも活用したいから学校で教えてほしいという需要や、家庭に無いから学校で教えてほしい、そういったニーズはありそうです。
少し、話は脱線しますが、ミシンは入園・入学時に最も使われることが多いと思いますが、当然「使わない」という選択もできるわけです。
ミシンを迂回する方法
ミシンを使う機会は生活実感ベースでも少なくなっています。既製服の低価格化で、ほつれや破れは繕わずとも、新しく買い直すことができるし、裾上げもお店でしてくれます。
雑巾は、古いタオルをミシン掛けしなくても、100円ショップで買うことができます。
既製品の入園グッズは普通にショッピングモールで売られていますし、手芸屋さんでは布だけでなく、完成品が売られていることもあります。
いかにも既製品っぽいものは嫌という人は、minnneやCreema、Base、STORESjp、メルカリなどを探せば、ハンドメイドのものが簡単に見つかります。
ミシンを持たない、という選択はそれほど頭を悩ませなくても、十分に可能です。
もちろん、あれば創作の幅が広がり、作品の自由度も高まるので、あるに越したことは無いのですが。
家に「はんだごて」やノコギリや電動ドライバーがあると、自分で修理修繕できる、みたいな話と一緒ですね。
「家庭科教えないでほしい」の話
小学校の学習指導要領を見ると、家庭科学習の目的は次の通りです。
衣食住などに関する実践的・体験的な活動を通して,日常生活に必要な基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けるとともに,
家庭生活を大切にする心情をはぐくみ,家族の一員として生活をよりよくしようとする実践的な態度を育てる。
技術だけでなく、心情や態度をはぐくむ、というのが家庭科学習のポイントになるのかと思いますが、言うまでもなく教えるのが難しいのは後者のほうです。教える側の価値観やステレオタイプが強く出てしまえば、冒頭の話題のようになってしまいます。
教える側の力量がかなり問われてしまうというのは、学校における道徳教育の悩みどころだと思います。
こちらの話題もまた辛い話なのですが、かといって一人の若い先生だけに批判があつまるのも違うように思います。
上に紹介した論文と同じ著者ですが、『母親の子育て観と家庭科学習内容に対する意識との関係』(2016)というのもあります。正直かなり雑な分析をしたものなのですが、これによると、やはり裁縫やミシン、調理などの項目が、家庭科で学校が教えるべき、との回答が多いようです。
注目すべきなのは、上位を占めるのは、生活に欠かせない「技術の習得」であり、家庭・家族の価値観を教わることを親は望んでいない、ということです。
道徳的な意味づけを裁縫や料理、洗濯といった生活技術に結びつけてしまうと、安易な「家族の絆」「母親の愛」信仰に陥りがちになってしまいます。
むしろ、家庭や家族について考える時間は、それらの技術の時間と切り離して、家族観の変遷や国際比較、ジェンダーやフェミニズムに対する正しい認識を教えてほしいところなのですが、小学校の先生に、そこまでは期待できるはずもありません。
やっぱりそうすると、下手なことを教えるくらないら、家庭科(道徳)教えないでほしい、という帰結になるのではないでしょうか。
教育格差は当然なのか?
以前、こちらの記事が話題になりました。ベネッセと朝日新聞が共同で実施した「学校教育に対する保護者の意識調査」の最新版の結果をふまえた記事です。
詳しい統計データは、こちらから。
問題の設問は、次のようなものです。
所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向があると言われます。
こうした傾向について、あなたはどう思いますか。
1.当然だ
2.問題だ
3.やむをえない
その結果がこのようになっています。
このグラフをどう捉えるか、というところがこの問題の焦点です。
「当然」と考える人は1割ほど、半数は「やむをえない」と回答しており、「問題だ」と考える人も3割います。経年変化を見ると、「当然」の割合が増えており、問題と考える人は少なくなっています。
さて、この問いに対してあなたならどう答えますか?
格差の容認か追認か
朝日新聞は、この結果について「教育格差の容認」ととらえています。
特に、高学歴で、経済的ゆとりがあり、都市部に住む保護者ほどその傾向が強い。調査に加わった専門家は「社会の分断が進んでいることの表れだ」と懸念する。
たしかに、ゆとりがある世帯のほうがその傾向は強くあるのですが、一方でゆとりがない世帯においても、年々格差を認める傾向が強くなっており、一概に社会の分断とも言い切れない側面があります。
ただ、よく知られているとおり、日本は教育投資に対する私費の割合が国際的にも非常に高い国であり、特に高等教育においてその傾向が顕著です。
(https://www.oecd.org/japan/Education-at-a-glance-2015-Japan-in-Japanese.pdf)
統計調査を見なくても、体感レベルで習い事や塾にお金がかかるということは分かると思います。学校教育だけで不十分ということは決してないとは思いますし、先生もすごく頑張っていると思われますが、それ以上に私費を投じている子どもとは差が生まれてくるのは、感覚的には当然のように思います。
あくまで推定でしかないのですが、教育格差は「当然」「やむをえない」と答えた人の中には、こうした現状を追認する形で答えたのではないでしょうか。
教育投資の私費の割合が高い以上、お金を持っている人のほうが有利という現状は、本来教育は平等に受ける権利があるという感覚を麻痺させているようにも感じられます。
教育格差は当然だけど
個人的には、上記の問いに対しては「やむをえない」けど「問題」だ、と答えたいです。つまり、設問の3択が間違っています。教育格差は当然という現状だからこそ、教育の機会均等に予算を振ってほしい、と感じています。
そもそも格差はなぜ問題なのか?という問いを持たれる方もいるかもしれません。
が、格差が生じることは社会的に多くの不利益もたらします。貧困層の増加は、福祉や医療費の増大を生じさせますし、税収の減少にもつながります。富裕層ばかりが得をする社会では、社会全体に不満と不安が満ち溢れ、犯罪率も高くなります。
これらはすべて社会的なコストです。
公的な教育投資は、子ども自身の未来だけでなく、子どもたちの未来の社会をよりよくするために、使われるべきものです。
このあたりの教育の社会的な便益については畠山勝太氏*1がいろんなサイトで論じているところなので、彼に譲ります。
そういえば、うちの子も小学生になってから、二つ習い事を始めています。
また「習い事」についても書きたいと思います。
*1:ちなみに彼は高校時代の同級生・・・。
半強制的な参加で得られる「ご近所」という資源
子どもだけで学校に行くということ
娘が小学生になりました。
ようやくそれが実感できたのは、子どもが「行ってきまーす」と家を出て行って、妻と私だけが家に残されたときです。
子どもの声もなく、静かな二人だけで過ごすリビングで「なんだ、このすごく穏やかな時間は…?」と思ったのが、子どもが小学生になったことを実感した瞬間でした。
子どもが一人でどこかに出かける、ということは今までほとんどなく、夫婦二人だけでいる時間もほとんどありませんでした。
今まで保育園に預ける時間以外は、ずーっとべったりと子どもにくっついていたのですが、これから子どもだけでできることがどんどん増えるにつれて、その距離は自然と離れていくのだし、それが成長なんだな、というのを思います。
ただ、子どもを遠くから見守りつつも、親は親でその地盤を固めておかないといけない、と感じたのが「ご近所づきあい」です。
ご近所づきあいの必要性
保育園時代は、四六時中親が見ているほかは、ほぼ保育園オンリーにおんぶにだっこしてもらっていたので、あまり必要性を感じませんでしたが、小学生になるとご近所ネットワークにも頼らざるをえない、と実感しています。
大学時代の恩師、落合先生が、1980年代の自身の家族研究の調査にまつわる統計データから、こんなクイズを出しています。
「近所の人たちがつくる育児ネットワークは、都市部と郡部のどちらで盛んだったでしょうか?」
日常のあいさつをする、などの通常の近所づきあいは、大方の想像どおり、郡部の方が盛んだった。しかし、子育てをめぐる近所づきあいに限っては、予想を裏切り、都会の方が盛んだった。
その理由として、
親族から孤立した核家族は、親と同居の世帯に比べて、子育てをめぐる近所づきあいに熱心だということもわかった。つまり都会に住む、親族に頼れない人ほど、やむにやまれず近所の人たちと育児ネットワークを作っていたというわけだ。
としています。
親族の力が借りれない分を地域のネットワークを補い、常に定量のネットワークが子育てには求められる、ということから「育児ネットワーク一定の法則」と呼んでいるそうです。
上記のように、都市部で子育てをしている方はよく実感していることと思われますが、転入出が多く、もともとのつながりが薄い地域では、その育児資源を確保するために小学校のシステムが一定の育児ネットワークを作ることを強制しているのではないか、と感じています。
「登下校」時のつながり
まず、「登下校」です。冒頭の場面では、子どもが一人で家を出ましたが、その後近所の子たちと集合して学校に行きます。(その様子を毎日ベランダから見ています)
集団登校という決まりがある学校、無い学校いろいろありますが、特に小学一年生の場合、一人だけで学校に行くということはあまり無いのではないかと思います。
そこで、近所の子たち(あるいは兄弟と)と示し合わせて連れだって行くことになるのですが、子どもたち同士だけで約束の時間を決めて行くのではなく、そこには当然、親どうしのおぜん立てが発生します。
誰と、何時に、どこに集まって行くか、といった事前調整を行います。その地域での育児経験が浅い場合、そもそも誰が近くに住んでいるのか?というところからの手探りになります。
「連絡帳」というシステム
登下校にも関連しますが、極めつけがこれです。
「連絡帳」とは学校の先生と保護者の間での情報伝達を行うためのノートですが、その連絡帳を持っていくのは「子ども」です。
連絡帳には、学校からは必要な持ち物、時間割、予定などが書かれ、一方保護者は体調不良、遅刻早退・欠席などの事由を書きます。
でも、自分の子どもの欠席連絡を自分の子どもが連絡帳をもって伝えることはできません。
そこで「近所のいつも一緒に行く子あるいは兄弟」に預けて持って行ってもらう、というのが通例となっています。
遅刻・欠席の電話連絡はなるべく避け、この連絡帳で行うように、というお達しが学校説明会では行われることと思います。
とても、前時代的で信じられませんが、この非効率な作業を先生も保護者も受け入れています。遅刻早退・欠席の連絡なんて、クラウドの勤怠管理に近いシステム入れれば、済みそうな話なんですが、それはおいといて、「近所づきあい」が無ければ、この連絡帳というシステムは成り立ちません。
これは地域ネットワークの必然性をあえて作るために、やってるものではないかと思われます。面倒なやり取りが発生するシステムをわざと作って、子ども同士、親同士でつながりを作りやすくする、というものです。
連絡帳の賛否についてはこれまでもいろんなところで話題になってると思うので、それには触れません。ともかく、このシステムを受け入れる以上は、地域のつながりが不可欠になります。
地域のつながりを得ることで、複数の子どもがいて長年小学校に通わせているベテランの保護者から学校に関する情報を、重要なものから些細なものまで得ることができ、決して悪いことばかりではありません(余計な情報も多く入ってきますが)。
違和感があるとすれば、親の社交性が子どもの学校生活に影響してしまう、というところかと思います。
「居住地域」という大雑把なくくりで決められたグループには、良くも悪くもいろんな人がいます。
近しい考えや文化、あるいはルーツを持った人同士のコミュニケーションよりも、それらがバラバラの人同士のコミュニケーションのほうが当然難しくなります。
表面上の付き合いだけなのでそれほど難しくない、というかそれが「オトナ」の付き合いだろうという意見もあろうかと思いますし、それが嫌なら同質性の高い私立に通わせるのが筋なんでしょうが、公立の学校に通う多くの親は、適切な距離を保ちつつお互いを活用するスキルが求められてきます。
よくある「ママ友」の世界ですが、それが避けては通れない感じになってきた、というところでしょうか。
離れた場所で地盤を固める
いまは、子どもたちを少し遠くから見守りながら、その遠くの場所で、子ども同士がなんの遠慮もなくお互い助け合えるような関係づくりの土台を作っているように感じます。
どんなお母さん、お父さんなのか、わからない子どもと一緒に学校に行く、その子に連絡帳を預ける、というのはやはり人によっては不安なものであるのかもしれません。
親同士の仲のよさが子どもどうしの関係性に影響してしまう、というのはあまり健全なものとはいえない気がしますが、だからといってそんなことで子どもの足を引っ張りたくたくないなぁ、というのが本音のところですし、地縁も重要な子育て資源であることには変わりありません。
半強制的なPTAによって得られる資源
PTA活動や自治会などの活動自体も賛否はあると思いますが、それらの活動は、自分の労力と引き換えに、こうした地域の育児ネットワークという資源を得ることができます。
うまくできてるというか、このあたりPTAが半強制的でも許されてきた所以なのではないかと思います。参加が半強制的であることで、地縁を作ることに消極的(受動的)な親にもそうした資源を得る機会がもたらされる、というところです。
私自身も、これまで団地の自治会長や保育園の保護者会長をやってきて、労力の提供の代わりに得た資源がたくさんあるので、それらを有効活用して、子どもの小学校生活を見守りたいと思います。
(まとまりなくだらだらと書きすぎてしまったけれど、とりあえず。*1
*1:そのうち推敲します)
なぜPTA会長は男性が多いのか?
4月になると話題のPTAです。
強制入会だの、ベルマークだの、平日の活動だの、こと話題に欠かないのがPTAですが、ここでは「なぜPTA会長は男性が多いのか?」議論を取り上げます。
9割のPTA会長が男性
(I-7-2図 自治会長及びPTA会長に占める女性の割合の推移 | 内閣府男女共同参画局)
全国のPTA、自治会のそれぞれの会長職における女性の割合の推移を示したのが上のグラフです。ともに、低い割合を示します。
ちょうど女性の議員の割合に似ています。あるいは古い体質の会社の女性管理職の割合も、このあたりに近いのでは。
ちょっと平成20年のものしか見つけられなかったのですが、都道府県別の割合です。まあ、上のグラフでほぼ横ばいなので、あまり経年での変化はないものとします。
都市部と地方との違いが明確になっています。
都内ではほぼ半々です。
当たり前ですが、女性でも男性でもどちらでもできる仕事だというのが分かります。
重要なことは男性が決めるのか
PTA問題に詳しい文化学園大の加藤薫教授(日本文化論)は「『重要なことは男性に』という日本社会の古い部分がPTAに残っているのでは。」と指摘。
上の東京新聞のコラムには、このような専門家のお言葉があります。「女性活躍」と同じ文脈で語れば、管理職に女性が少ないのと同じ理由で、男女差別がある、ということになります。
他にちゃんとした統計や分析調査があればいいのですが、いま手元にはありません。どこかにはありそうですが。
大塚玲子さんは、PTAに関していろいろ調べて単著も出されています。ここで挙げられている理由は「考えてみた」ものだそうなので、論拠は薄いですが、詳しい専門家の一人ですので、その理由を見てみます。
・会長の集まりは夜が多いから
・女が前に出てはいけない、という意識があるから
・交渉ごとが多いから
・男性文化が強すぎるから
という4つの理由を挙げています。
これは一般にいう男尊女卑の地域文化の影響も大きいと思いますが、女性たちがうまく男性を担ぎ上げて「便利に使う」というように飼い慣らしてきた結果でもあるように思います。会長職に男性を飾っておいて、「本当に重要なこと」は女性たちで決めてきた、という話です。
実際に、田舎の方では、今も名誉職的な位置づけで、商工会や商店街の長などと同様に、地域の力関係が影響しやすい役回りである、という話は聞きます。
そういった地域のつながりの薄い都市部で、女性会長が多いというのもまあ納得できます。
「説得」という会長の選び方
役員の選出方法は、それぞれのPTA規約に沿った形になると思いますが、おおむね
・立候補あるいは協議
・推薦委員(選出委員・指名委員など)による
・くじ・じゃんけん
に大別されます。
下記の表は、参考程度にネットで拾ってきたものです。履歴カードとは過去の役員履歴や3歳以下の子供がいるかなど、選出に当たって配慮されるべき項目を書くことができる魔法のカードですね。
(http://www.sagamihara-hashimoto-e.ed.jp/11_tayori/2PTAsensyutsu.pdf)
これだけ見ると、男性に偏ることはあまりなさそうにみえるのですが、一般に三役(副会長・書記・会計)以上の役員の場合、あらかじめ目星をつけた候補者を口説くことで、次の担当者を決めることが多いです。「推薦」というよりは「説得」というのに近いです。
保育園の保護者会の話ですが、私も飲みに誘われた後に、長々としたLINEをいただき、会長をやっていただきたい旨を伝えられたことがあります。。
そのため、非常に属人的・かつ慣習に倣った選出がされやすいために、男性が慣例で会長となっている学校も多いと思われます。
父親参加の是非
個人的には、会長職に限らず父親がもっとPTAに参加すればいいし、PTAも自治会も可能であれば、夫婦連名でやればいい、と思っています。
時間的に会議に出られなくても、家でやれる仕事も多いですし、外部の会議も含め月に複数回ある場合は、交代で行ったほうがお互いに職場に気を遣う機会も少ないかと思われます。
去年一年間、夫婦連名で保育園の保護者会長をやっていましたが、何の問題もなく、仕事も分担できて非常にやりやすかったです。(ケンカのタネにはなりますが)
実感として会長職をすると、年間100~120時間程度はそれらに無償で費やすことになり、たしかに面倒なのですが、基本的にはボランティアでやってることなので、無理のない範囲で、あとはどれだけ仕事を振る、捨てる、減らすかかと思います。
PTA活動のめんどくさいもののほとんどが、慣例的に行われているものだと思うのですが(偏見)、空気を読みつつもそういった慣例を穏やかな手続きで変えていきたいものだなぁと思うところです。
あ、でも当面は何もやりたくありません。保育園の会長職で疲れたからです。
PTA参考記事
・とてもよくまとめられております。ミクロ編もぜひ。
・なぜか知らないけれど、とても詳しい栃木県のPTA解説サイト。
・他、参考図書
女人禁制と相撲のはなし
相撲の女人禁制をめぐる話題が賑やかです。
べつに、人は間違える生き物なので、あわてた宮司が「女の人は~」と口走ったとしても、ごめんなさい、でいいと思うのですが、いろいろ言い方はありますよね。何度も炎上している相撲協会なので、そのあたりは炎上対応のマニュアルをいい加減策定してほしいです。
(※そういえば、先日娘の入学式でした。)
ただ、宗教・習俗的な儀礼としての相撲のルールについてはちょっと興味がわいたので、少しだけ調べてみました。
そもそも女人禁制とは?
女人禁制は、主に信仰にかかわる慣行として、とりわけ山を修行の場として神仏と交流して自然の力を身に着ける修験道において、日本のほとんどの霊山は、明治5年(1872年)に政府による解除の布告が出るまで女人禁制を維持してきました。*1
女人禁制は主に、二つの理由からなされます。
一つは、女性の生理にかかわる妊娠・出産・月経などの血の穢れを忌み嫌うため、
もう一つは、男性の世俗の欲望を断ち切る(仏教的戒律)場に誘惑されないため、
です。*2
女人禁制の場所・場面
今も女人禁制を続ける山の例としては、紀伊山地の霊場「大峰山」などがあります。
また、今ではそんな慣行は無くなりましたが、トンネル工事なども女性が立ち入ることはできませんでした。
京都の祇園祭の山鉾巡業では、2001年に300年ぶりに女性が山鉾に上ることを許されました。
また酒造りの場でも女人禁制が謳われていました。そういえば、こんなまとめもありましたね。
実際、化粧の匂いがつくことや、麹以外の菌がつくことを嫌う意味合いもあったようですが、古くは女性が酒を造ってきた歴史もあり、実際にはただの酒の神様が怒るという観念からくるものでした。*3
そして相撲です。
2000年に、大阪府の太田房江知事が表彰式での土俵入りを断られたことは上述の記事中にも紹介されていますが、そもそもの走りはなんでしょう。
山田知子『相撲の民族史』(1996)によれば、相撲の語源は手に何も持たない足踏みを意味する「すまい」(素舞)で、死霊や悪霊を鎮め追い払う呪術であったといいます。
神事としての相撲の事例は多々あるようですが、今も有名なのは、靖国神社の奉納大相撲、伊勢神宮の奉納大相撲などがあります。
五穀豊穣とか鎮魂だとか、まあ目的はいろいろです。
相撲という『儀式』が持つ力やお相撲さんの縁起の良さ、強い力にあやかることで穢れを祓います。
平成30年奉納大相撲のご案内(4/16)--開催日程--|新着情報|靖国神社
『相撲を取る』という行為自体が、穢れを祓うための神事とされるために、やはりこうした神事としての相撲では、女性は「穢れ」として排除されているようです。
穢れ・不浄観の由来
諸説あるようですが、文献上は、9世紀ごろから、女性の血を穢れとして禁忌に組み込むものがみられるそうです。*4
明確に月経(お産)が穢れと書かれるのが『貞観式』という平安初期の法令集です。(*5)
その穢れが徐々に拡大・強調されていくなかで、女性の存在そのものを「一種の穢れ」とみなす観念が生まれた、とされています。その過程の中では、儒教的な家父長制や仏教思想など容易に女性蔑視に結び付きやすい思想からも強く影響したものと考えられます。
大相撲は神事なのか?
先にみた、神宮や靖国神社での相撲は、儀式的な要素の強い神事である、というのは分かります。
決して『宗教>女性差別』で何をしても許される、というわけではありませんが、宗教的な事例でいえば、男子禁制もまたあるでしょうし、今回の命にかかわるような緊急事態を除けば実生活上の不便はあまりありません。
ところで、今行われている『大相撲』は神事なのでしょうか?
大相撲の前進は江戸時代に行われていた勧進相撲と言われており、基本的なルールはそこから継承されているようです。『勧進』とは寺社・仏像の建立・修繕のために寄付を募ることです。もうけを得るという点では、いまの興行相撲とほぼ同じです。
江戸時代に女相撲があったことは上述の記事にもありますし、野良相撲というような草野球のような非公式の相撲も多くあったようです。
いまある大相撲は、そのなかの主流ではあるものの、多様な系譜の一つにすぎません。
もう少し、大相撲の歴史を詳しく見る必要があります。
明治期の近代化と相撲
明治維新~文明開化という社会の動向は、近世の社会・文化に深く根ざしていた大相撲にも深刻な影響を及ぼしました。*6
「お前明日から散髪な」という命令が飛び交う中、お相撲さんはマゲを結い続けました。相撲は野蛮でしかも裸体を晒すとは、けしからん。非文明的だ、という逆境の中で相撲は活路を見出し、先に見たような奉納相撲など一定の役割を担います。
また、勧進相撲でパトロンとなった相撲年寄らも廃藩置県で無職になります。相撲の組織再編は不可欠であり、苦難を乗り越えながら新たな興行組織へと再構築されていきました。
そして、明治42年に「国技館」が生まれます。『近代における大相撲の改革とその変遷』*7という論文では、この時、”国技館の開館にともなって土俵を取り巻く制度改革が行われた”といいます。
「相撲は興行的にはうまく行っているものの、式は乱れており、品行もいかがわしいものがある」として、この是正を図るべく、同 41 年夏場所終了後に力士および行司一同を回向院境内に集めて訓示を述べている。
(中略)
このほか、投げ纏頭(はな、投げ祝儀、投げ花とも書く)の禁止、土俵上での作法、場所入りの際には羽織・袴の着用の義務(今日は着物)が申し渡され、力士の品位向上も努めた。そして、この場所から「故実」に倣って、正面(南)から見て右側であった東方が左側に変わり、土俵上の東方・西方が逆転して今日に至っている。
明治 43(1910)年の 5 月場所からは行司の装束が裃姿から烏帽子・直垂姿に改められた。なかでも、優勝制度の制定は勝負へのこだわりを生じさせ、引分・預などはこれを契機に減少傾向を示し、大正末の個人優勝が制度化した際に廃止された。
さて、文中における故実とは、朝廷などにまつわる古い儀礼書のことであり、ここで改めて神事としてのルールに倣っていることが分かります。
と同時に、ほぼ今日にも受け継がれているルールに近いことから、少なくともこの段階において明確に女人禁制についてもルール化されたと考えられます。
とすると、女人禁制はわずか100年ほど前の伝統ということになります。
女人禁制が現代に残る意味
それでは現代においてもなお、大相撲に女人禁制が残る意味はなんでしょうか?
ひとつは、相撲が国技である、ということ、そして近代国家における近代スポーツの役割というところにあると思います。
国家主義的であると同時に、保守的な思想と容易に結びつきやすい。伝統を重んじるがゆえに、封建的で現代社会における人権をないがしろにしてしまう。
そういった側面が意図せずとも見え隠れしてしまうため、多くの批判を呼んだのではないかと思われます。
女性が土俵に立ち入ったからと言って、疫学的には全く汚れることはないでしょう。特に相撲はほとんど見ないんですが、遅かれ早かれ、女人禁制は解いたほうが相撲は長く続くのではないかと思います。
前に少しだけ働いていた古い体質の会社では、お昼休みに休憩室でご飯たべてたら、ここは男子禁制よ、と言われて追い出されたことがあります(もっと遠回しな表現ですが)。全くもって不条理です。そのあと塩でも撒いたんでしょうか。
以上、主夫とは全く関係のない話でした。
*1:鈴木正崇『女人禁制』p2.
*2:同p4.
*3:同p22.
*4:同p196.
*5:令集解にも「不浄の物」という記載有り(波平恵美子『ケガレ』第二章)
*6:『近代における大相撲の改革とその変遷』http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36270/
*7:http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36270/jsb011-07-shimoyachi.pdf
私の好きな道具たち(キッチン編)
先日、自分の家の家事が他人の家でも通用するとは限らない、とか、家事なんて手抜きでいい、みたいなエントリを書いたばかりなのですが。
それはそれとして。
家事を便利にする道具はたくさんあります。
自分の好きな道具を使って家事をするのは気持ちいいですよね。
オフィスで文房具やPC周辺機器にこだわるのに、その辺りは似ていると思います。
効率化うんぬんよりも気持ちよく仕事するための、趣味みたいなものです。
先日、せっかくいいカメラを買ったので、そのカメラで撮った写真でお送りします。
木のへら
いきなり地味なものを持ってきました。
どこで買ったか覚えていないくらい10年以上使い続けているものです。
炒め物のときに必須のアイテム。菜箸よりしっかり具材を混ぜることができます。
料理の基本は母から教わったのですが、その母がいつも同じようにこうしたへらを使っていました。
有元葉子さんの鉄フライパン
こちらは、鉄フライパン。
(※ビビッドなせいで錆びているように見えますが錆びてません)
鉄フライパンを探していて、価格も手ごろで軽くて使いやすいこちらを選びました。
これがとても良いです。
まず、柄が短いので収納しやすい。24cmの鉄フライパンのわりに軽い。
そして、熱効率がいいので、すぐに調理できます。
ハンバーグはボール状にしてそのままオーブンに入れれば、中までしっかり火の通ったジューシーなものが出来上がります。
水につけたまま放っておくと錆びてしまうのが鉄フライパンですが、ガシガシ洗って、火にかけて乾かしておけば、基本的に錆びることはありません。
今は、ラバーゼというブランドで売られています。
キュキュット泡スプレー
子どもの水筒やお箸セット、弁当のふたなど洗いにくいものはこれで、シュッとかけて1分ほど放置して洗い流せばOK!という非常に優れモノです。
とにかく楽です。お値段298円ほどで買えるので、ぜひ。
パストリーゼ 除菌スプレー
最近、おしゃれなパッケージの除菌・消臭スプレーが流行っています。
が、なんか効果も怪しいものが多そうな中で、信頼性の高いのがこちら。
口に入れても大丈夫な成分でできている、というのが最大のウリです。
とにかくキッチン周りやテーブル、その他気になるところはシュッとして台拭き。ウイルスを退治した気分になって、気持ちいいです。
より安価なものはこちら。マツモトキヨシのPBブランド品です。マツキヨも最近、モノトーン調のパッケージに変わったようです。キッチンにそのまま出しておいても問題ないデザインでいいですね。
蚊帳ふきん
上のスプレーなどはこれに使います。普通に水拭きにも使います。これは柄ありですが、なんでもいいです。楽天スーパーセールやお買い物マラソンの買い回りで、うまくいけば4枚1000円くらいで手に入ります。
丈夫なので、毎日使ってすぐ洗濯します。とにかくボロボロになるまで使い倒します。
ダスター
最近は、こんなオシャレな箱に入ったダスターもあります。
これなら、普通にキッチンに置いていても問題ないですね。
これもいっぱい入ってるので、ガシガシと遠慮なく使います。台拭きとしてだけでなく、家じゅうの掃除に使います。
べつに普通の雑巾でもいいのですが、さっと捨てられるもののほうが楽です。
IKEAのガラス容器・木のさじ
コーヒーは普段は豆を挽いてドリッパーで淹れるのですが、面倒な時もよくあります。
そんなときはインスタントコーヒーです。
詰め替え用の安いのを買ってきて、このガラス瓶にいれます。短めの柄の木のさじを入れておけば、1杯分がちょうど掬えて楽です。
見た目も悪くないので、そのままキッチン台などに置いています。
砂糖&塩の保管
陶器製の容器です。これをコンロ横に置いています。(だから汚い)
上のシールはIKEAで売ってます。(コーヒーの保存容器にも同じのを貼ってます)
中には計量スプーンが入っています。
調理するとき、ここからスプーンでサクッと掬って入れるのが、私的には一番楽です。
IKEA ふりかけ等の保存
名前が分からないのですが、これもIEKAのものです。
上から撮ってるのでわかりづらいですが、キッチンの収納に入るくらいの大きさの調味料入れです。中身が一目でわかるように上のふたにテプラでラベルしています。
これがあると、子どもが勝手に引き出しを開けて、ゆかりやのりたまを自分でふりかけられるので、楽です。
写真のなかに「のりたま」がないのは、子どもがいつも使ったまま卓上に置いているからです。(←妻に叱られるやつ)
お茶のAmazonDashボタン
お茶を沸かすこともあるのですが、基本的には面倒なので2Lを箱買いしています。
子どもの水筒のお茶も十六茶です。
在庫管理を自分ひとりでやるのも大変なので、家族の誰かが気づいたらこのボタンを押します。ダッシュボタン、ちょっと楽しいので、みんな苦になりません。
会社で総務してた頃に、ダッシュボタンがあったら絶対導入するなぁ、と思います。
本当は、からだ巡り茶のダッシュボタンが欲しいので、Amazonさんお願いします。
栗原はるみさんの丸いまな板
丸は正義です。どんな向きにおいても、まっすぐです。
持ちやすいし、据え置き型の食洗機なら入ると思います(おそらくビルトイン型の勝間さんには無理と言われましたが・・)。
裏が白、表が青なので、ニンジンなど色移りしやすいものは青で、他の食材は白で、と使い分けたりもできます。
エピキュリアン カッティングボードS
そんな大した量を切らないとか、チーズとかおつまみ、ミニトマトなど朝食程度などに使うときはこちら。
かなり傷がついている(ようにみえる)のですが、かなり固い素材でできていて丈夫です。もう5年以上使っています。固い板なので、切る具材を選びますが、慣れれば小さくて扱いやすいので便利です。
終わり
これ系の記事は、書きだすとキリがないので、いったんこれで終わります。
いいカメラは余計なものが映り込んでもそれなりにきれいに見えて、いいですね。汚いものも見えすぎるのが欠点です。
次は、収納用品でこのシリーズ、続きます。
メルカリを共有本棚(シェア倉庫)として使う
メルカリ便利ですね。
最近、ブランドものの服は専らメルカリで買ってます。
仕組みと市場ができれば、メンテだけで大量に儲かるのでいいビジネスだと思います。
さて、今回はメルカリを共有棚として利用する、というお題です。
メルカリの「シェア倉庫化」とはどういうことか、というのは、下記の記事が詳しいです。
ある大学生はお店で「流行りの服」を新品で買ってきて、メルカリで「流行が終わる前」にすぐに売ってしまうのだそうです。
そうすることで、自分の心を満たしつつ「後から流行りにのってきた子」に高く売ることができて、実質的に安く洋服を着ることができるから。
流行にビンカンであることで、経済的にトクするようになっている、というのがちょっとおもしろいなと感じました。
これは「服」の消費行動を図解したものですが、おなじことを「本」で行います。
新刊本を安く購入でき、同じ趣向の人に共有できる(安く売れる)、ということです。
メルカリの商品欄がブクログなどの本棚のようになるので、これを『共有本棚』と名付けます。
買ってすぐメルカリ登録
私は、新刊本を買います。もともと欲しい本、読んでみたい本、いろいろです。
買うと同時に、メルカリに出品します。
「カウル」という姉妹アプリを使えば、ISBNバーコードを読み取るだけでOKです。価格も自動計算で算出してくれます。(新刊の場合定価の8割~9割の値段になります)
あとは、売れるまでに本を読みます。普通に本棚保管で、とくに出品棚とかは作ってません。
たまに読み切ってないうちに、売れることもありますが、その場合発送まで(2,3日)の間に読み切ります。
半強制的に積ん読を解消できるので、これはこれで良しとします。
売れた後の手続き・処理
いくつか用意しておくものがあります。
A4用紙・A4封筒、
ネットワーク(Wifi印刷できる)機能のあるプリンタ
クリックポスト(Yahoo!アカウント)のID
プチプチ(包装用)
マスキングテープ
です。
基本的に、送付はクリックポストです。A4サイズで厚さ3cmまでの大きさのものならすべて164円で送付できるので、たいていの書籍はこれで送ることができます。
相手の住所をコピペしてクリックポストに入力し、印刷します。
プリンタをwifiで接続していれば、スマホでもPCでも作業はできます。
プチプチ(緩衝材)は、自分がAmazonなどネット通販で頼んだ時のものを取って保管しておき、それを使います。(多少破れてても文句言われることはありません)
A4サイズの封筒に売れた商品を入れ、マスキングテープで閉じます。
B5サイズの本などなら、封筒を半分に折って閉じるときれいです。
クリックポストの宛先の紙もマステで両端を留めるだけです。
マステを使うのは、糊よりも早いのと、見た目オシャレにみえるからです。
発送までの相手とのやりとりはしなくても大丈夫です。発送通知と評価だけあればいいし、ちょっと遅れた場合は、その旨伝えればOKです。
発送の手間は、かなり簡便なものになっています。
1商品につき3分弱。たくさん出品して発送日を決めてまとめて行えば、より短縮できます。
上記のやり方で100件以上取引していますが、100%良い評価を得られています。*1
手数料と売上
手数料は売上の10%です。
あまりに安い本だと大した売上にならないので、基本的に単価1000円以上のものしか出品していません。
売価は新刊本の場合、定価の8割~9割にしていますが、値下げには柔軟に対応します。
高いと思われるかもしれませんが、売れなくてもいいか、というか、あんまり売りたくないな、くらいの気持ちで高めの値段で出しています。(なんせ共有棚なので)
それでも、新刊で買うより安く、メルカリのちょっとしたポイントも使えるので売れていきます。
結果、定価の6,7割が利益となります。
最近ネットで新刊本を買うと10%ほどポイント還元されることが多いので、無事売れさえすれば、実質定価の2,3割の価格で新刊本を読むことができます。
新刊を買う際の罪悪感が少なくなる、というのも大きいです。
売れない本もそのうち売れる
そんな単価の高い本を読むユーザーがメルカリにいるのか?と思うかもしれませんが、意外と本を買う人は多く、特にカウルの影響で爆発的に広まっている印象があります。
また、メルカリにはフォロー機能というのがあり、フォローしたユーザーの出品した商品をすぐに見ることができます。
売る側としても、勝手にリピート購入していただける、ありがたい機能です。
そのため、しばらく売れない本もそのうち売れることもあります。
私が出品している商品は基本的に本好きのコア層に響くものを出しているので、この本もいいな、とさかのぼって買ってくれる人も多いようです。
本当に手元に置きたい本は一度手放すと分かる
自分の部屋の本棚は有限です。
でも常に自分の本棚を公開しておくことで、その本棚にある本を誰かが手に取ることができます。
そうして、本棚の本は常に入れ替わっていきます。
たまに手放して惜しいと思う本もあるかもしれませんが、とりあえず一旦手放してみます。
すると、やっぱりもう一度欲しい、と思ったころには、売った値段と同じくらいに価格がこなれていることもあります。
「本当に手元に置いておきたい本は、いずれ戻ってくる」というのは本屋Titleの店主・辻山さんの言葉ですが、誰かに売ったり貸したり買い戻したりできるのは「紙の本」の利点です。
本についての話は、こんなことも書いています。本は、大好きなので、新しいものともうまく付き合っていきたいです。
*1:件数的に古物商取らなくていいの?と思われるかもしれませんが、年間でいえばそれほど売れていません(確定申告も要らないレベル)。よほど何か指摘されるか件数増えたら取ろうかなと思います。そんな難しい手続きじゃないので・・
家事(仕事)の効率化について思うこと
家事(仕事)の効率化の目的
家事に限った話ではなく、仕事全般に言えることですが、「業務効率化」って何のためにやるんでしょう?
以前、こんな記事を書きましたが、ここでは長時間労働は人の幸福度を低下させるという統計を引き合いに、幸福度の追求のため、という回答を一つ提示しています。
でも、それよりももっと実務的に感じられるメリットとしては、「判断業務」などの高次元の仕事への時間が増やせる、ということに尽きると思います。
誰でもできるような作業的な時間は極力減らすか、自動化するか、無くすかして、自分にしかできない仕事に時間を費やしましょう。ということです。
家事であれば、効率化して空いた時間は、そのまま自分の好きなことに使ってもいいと思います。趣味の時間や、読書・音楽、負担でなければ子どもとゲームしてもいいと思います。
家事(仕事)の効率化の手段
効率化の手段は、すでに日本の名だたる企業がその体系をほぼ確立しています。
ほぼ、記事中の文章そのままですが、ここでは家事(仕事)は4つに分類します。
(1)主作業(夕ご飯を作る)
(2)付随作業(買い物をする・献立を考える・食卓の整理)
(3)準備・後始末作業(下ごしらえ・片づけ・皿洗い)
(4)ムダ・例外作業(醤油をこぼす・失敗して焦がす・作りすぎ)
となります。
仕事を分類して見える化すると、注力すべき(1)が何かはっきりします。(1)に時間とエネルギーを配分しながら、(2)~(4)の作業をする。(2)では、情報収集時に本案件に無関係な情報には見向きしないこと。(3)では、事前準備として、過去、社内に類似の案件がなかったか調べる。あればそれをたたき台にして、時間を節約するのです
業務を分類したら、5つのムダを探す。
(1)品質のムダ(味付け・素材)
(2)滞留のムダ(レンジとコンロの平行稼働)
(3)歩行・移動・流れのムダ(家事動線・冷蔵庫の中身整理)
(4)種類・数量のムダ(適正量・作り置き)
(5)ミス・手直しのムダ(計量)
だそうです。
これはあくまで、業務改善を前提としていますが、そもそも業務を「変える」ではなく、そのものを「なくす」「減らす」という考え方もあります。
(※大塚商会HPより 上記引用URL)
具体的な方法は提示できない
では、具体的に何をすればいいのか、というのは上述の記事には書かれていません。
夕飯を作る工程での効率化でできることは、食洗機を使う、宅食を使う、冷凍総菜を使う、ホットクックを使う、家政婦を雇う、など様々です。
その人の居住環境・生活時間・スタイルや好みなどによって全然違うものになります。
このブログで、あまり具体的な家事の話をしないのも、それが理由です。
うちの家事の仕方が、他の家で最適な家事とは限らない、からです。
それでも、いくつかある実践例のなかで、自分に合ったものを見つける、というのが最善手かと思います。
それこそ、主婦たちが積み上げてきた過去のノウハウ的なものは膨大にあるので、それを参考にしつつ最新のトレンドを新刊雑誌などで追えばいいと思います。
効率化を負担に思うなら、しない
効率化・効率化ばかり考えていると、息苦しくなります。
仕事が遅い、雑なのが、責められているような気がする、時間がかかっていること自体にイライラしてしまう、そんなふうに感じてしまうのなら、効率化なんてしなくていいと思います。
家はくつろぐための場所で、安心して落ち着ける場所のはずです。
それなのに家でも仕事してるみたいな感覚は、やっぱり少し生きづらい気がします。
だらだらと家事をするのもまた、ストレスをためない大事なやり方だと思います。
うつ病になり休職中のころ、キャリアアドバイスを受けたとき、健康だった時の力を100%としたら、いま自分はどれだけ働けるか?と聞かれ、60%と答えました。
すると「じゃあそこからさらに8割の力で働ける場所を探しなさい」と言われました。
人は、簡単に自分の力を過信して無理をする生き物のようです。
アドバイスどおりに仕事を見つけたので、今も無理なく続けられています。
「休む」「何もしない」「立ち止まる」
乳幼児がいて一番大変な時期は、そのことだけに集中して、他の家事は一切やらない、委託する、という形をとっていいと思います。
他の家事をしていないと、放置した仕事が山のように積みあがっていくさまを見ているようで、焦る気持ちもあると思いますが、それは自分がしなくてもいい仕事です。
効率化は、余裕を生むために作るものですが、そもそも余裕がないときは、そのこともしんどいと思います。
会社はゴーイングコンサーンで、自分がいなくても動き続けますが、自分のことは自分で休むこともできるし、立ち止まることもできます。
「休む」「何もしない」「立ち止まる」ことも、効率化以上に大事なことのように思います。
効率化について、つらつらと書いたものの、
だらだら家事したっていいんじゃない?人間だもの。
というのが本音だったりします。