女人禁制と相撲のはなし
相撲の女人禁制をめぐる話題が賑やかです。
べつに、人は間違える生き物なので、あわてた宮司が「女の人は~」と口走ったとしても、ごめんなさい、でいいと思うのですが、いろいろ言い方はありますよね。何度も炎上している相撲協会なので、そのあたりは炎上対応のマニュアルをいい加減策定してほしいです。
(※そういえば、先日娘の入学式でした。)
ただ、宗教・習俗的な儀礼としての相撲のルールについてはちょっと興味がわいたので、少しだけ調べてみました。
そもそも女人禁制とは?
女人禁制は、主に信仰にかかわる慣行として、とりわけ山を修行の場として神仏と交流して自然の力を身に着ける修験道において、日本のほとんどの霊山は、明治5年(1872年)に政府による解除の布告が出るまで女人禁制を維持してきました。*1
女人禁制は主に、二つの理由からなされます。
一つは、女性の生理にかかわる妊娠・出産・月経などの血の穢れを忌み嫌うため、
もう一つは、男性の世俗の欲望を断ち切る(仏教的戒律)場に誘惑されないため、
です。*2
女人禁制の場所・場面
今も女人禁制を続ける山の例としては、紀伊山地の霊場「大峰山」などがあります。
また、今ではそんな慣行は無くなりましたが、トンネル工事なども女性が立ち入ることはできませんでした。
京都の祇園祭の山鉾巡業では、2001年に300年ぶりに女性が山鉾に上ることを許されました。
また酒造りの場でも女人禁制が謳われていました。そういえば、こんなまとめもありましたね。
実際、化粧の匂いがつくことや、麹以外の菌がつくことを嫌う意味合いもあったようですが、古くは女性が酒を造ってきた歴史もあり、実際にはただの酒の神様が怒るという観念からくるものでした。*3
そして相撲です。
2000年に、大阪府の太田房江知事が表彰式での土俵入りを断られたことは上述の記事中にも紹介されていますが、そもそもの走りはなんでしょう。
山田知子『相撲の民族史』(1996)によれば、相撲の語源は手に何も持たない足踏みを意味する「すまい」(素舞)で、死霊や悪霊を鎮め追い払う呪術であったといいます。
神事としての相撲の事例は多々あるようですが、今も有名なのは、靖国神社の奉納大相撲、伊勢神宮の奉納大相撲などがあります。
五穀豊穣とか鎮魂だとか、まあ目的はいろいろです。
相撲という『儀式』が持つ力やお相撲さんの縁起の良さ、強い力にあやかることで穢れを祓います。
平成30年奉納大相撲のご案内(4/16)--開催日程--|新着情報|靖国神社
『相撲を取る』という行為自体が、穢れを祓うための神事とされるために、やはりこうした神事としての相撲では、女性は「穢れ」として排除されているようです。
穢れ・不浄観の由来
諸説あるようですが、文献上は、9世紀ごろから、女性の血を穢れとして禁忌に組み込むものがみられるそうです。*4
明確に月経(お産)が穢れと書かれるのが『貞観式』という平安初期の法令集です。(*5)
その穢れが徐々に拡大・強調されていくなかで、女性の存在そのものを「一種の穢れ」とみなす観念が生まれた、とされています。その過程の中では、儒教的な家父長制や仏教思想など容易に女性蔑視に結び付きやすい思想からも強く影響したものと考えられます。
大相撲は神事なのか?
先にみた、神宮や靖国神社での相撲は、儀式的な要素の強い神事である、というのは分かります。
決して『宗教>女性差別』で何をしても許される、というわけではありませんが、宗教的な事例でいえば、男子禁制もまたあるでしょうし、今回の命にかかわるような緊急事態を除けば実生活上の不便はあまりありません。
ところで、今行われている『大相撲』は神事なのでしょうか?
大相撲の前進は江戸時代に行われていた勧進相撲と言われており、基本的なルールはそこから継承されているようです。『勧進』とは寺社・仏像の建立・修繕のために寄付を募ることです。もうけを得るという点では、いまの興行相撲とほぼ同じです。
江戸時代に女相撲があったことは上述の記事にもありますし、野良相撲というような草野球のような非公式の相撲も多くあったようです。
いまある大相撲は、そのなかの主流ではあるものの、多様な系譜の一つにすぎません。
もう少し、大相撲の歴史を詳しく見る必要があります。
明治期の近代化と相撲
明治維新~文明開化という社会の動向は、近世の社会・文化に深く根ざしていた大相撲にも深刻な影響を及ぼしました。*6
「お前明日から散髪な」という命令が飛び交う中、お相撲さんはマゲを結い続けました。相撲は野蛮でしかも裸体を晒すとは、けしからん。非文明的だ、という逆境の中で相撲は活路を見出し、先に見たような奉納相撲など一定の役割を担います。
また、勧進相撲でパトロンとなった相撲年寄らも廃藩置県で無職になります。相撲の組織再編は不可欠であり、苦難を乗り越えながら新たな興行組織へと再構築されていきました。
そして、明治42年に「国技館」が生まれます。『近代における大相撲の改革とその変遷』*7という論文では、この時、”国技館の開館にともなって土俵を取り巻く制度改革が行われた”といいます。
「相撲は興行的にはうまく行っているものの、式は乱れており、品行もいかがわしいものがある」として、この是正を図るべく、同 41 年夏場所終了後に力士および行司一同を回向院境内に集めて訓示を述べている。
(中略)
このほか、投げ纏頭(はな、投げ祝儀、投げ花とも書く)の禁止、土俵上での作法、場所入りの際には羽織・袴の着用の義務(今日は着物)が申し渡され、力士の品位向上も努めた。そして、この場所から「故実」に倣って、正面(南)から見て右側であった東方が左側に変わり、土俵上の東方・西方が逆転して今日に至っている。
明治 43(1910)年の 5 月場所からは行司の装束が裃姿から烏帽子・直垂姿に改められた。なかでも、優勝制度の制定は勝負へのこだわりを生じさせ、引分・預などはこれを契機に減少傾向を示し、大正末の個人優勝が制度化した際に廃止された。
さて、文中における故実とは、朝廷などにまつわる古い儀礼書のことであり、ここで改めて神事としてのルールに倣っていることが分かります。
と同時に、ほぼ今日にも受け継がれているルールに近いことから、少なくともこの段階において明確に女人禁制についてもルール化されたと考えられます。
とすると、女人禁制はわずか100年ほど前の伝統ということになります。
女人禁制が現代に残る意味
それでは現代においてもなお、大相撲に女人禁制が残る意味はなんでしょうか?
ひとつは、相撲が国技である、ということ、そして近代国家における近代スポーツの役割というところにあると思います。
国家主義的であると同時に、保守的な思想と容易に結びつきやすい。伝統を重んじるがゆえに、封建的で現代社会における人権をないがしろにしてしまう。
そういった側面が意図せずとも見え隠れしてしまうため、多くの批判を呼んだのではないかと思われます。
女性が土俵に立ち入ったからと言って、疫学的には全く汚れることはないでしょう。特に相撲はほとんど見ないんですが、遅かれ早かれ、女人禁制は解いたほうが相撲は長く続くのではないかと思います。
前に少しだけ働いていた古い体質の会社では、お昼休みに休憩室でご飯たべてたら、ここは男子禁制よ、と言われて追い出されたことがあります(もっと遠回しな表現ですが)。全くもって不条理です。そのあと塩でも撒いたんでしょうか。
以上、主夫とは全く関係のない話でした。
*1:鈴木正崇『女人禁制』p2.
*2:同p4.
*3:同p22.
*4:同p196.
*5:令集解にも「不浄の物」という記載有り(波平恵美子『ケガレ』第二章)
*6:『近代における大相撲の改革とその変遷』http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36270/
*7:http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36270/jsb011-07-shimoyachi.pdf