田舎の高校から都会の国立大に進学する話
こちらの記事にぶら下がって、書いているブログをいくつか見て、私も少し思うところはあるな、と感じたので、思うままに記します。
何に絶望したのか?
この著者が絶望したのは、田舎では「想像力が奪われている」という事実でした。
「大学」というものがあるということを想像できる環境。文化、教育、教養といわれるものへのアクセスが田舎には全くなかった、という事実です。
そして、自分がここにいるのは努力ではなくただの偶然の賜物でしかない、ということもまた十分に絶望に足るものだったのだと思います。
田舎から抜け出すには大学入試がおそらく最大のチャンスだが、しかし、その可否は中学時代にすでに決まっている。
なぜなら、「都会には『大学』なる組織が存在し、自分も努力次第でそこへ入学するチャンスがある」という事実を教わることができるのは、中学で教師の言われるままに学区トップの高校に進学した者だけだからだ。
著者は悲嘆にくれたまま筆を走らせているので、表現が少し極端ですが、中学で成績上位でないと国立レベルの大学への進学が難しいというのは事実かと思います。
なお、文中の「底辺」とは小中学校時代を卑下したものと読めます。
『東大に入って絶望した田舎者』阿部幸大氏のウソを元「底辺校」教員が指摘 - Togetter
あの文章、底辺と呼んでいたのは小中学校の話と読めるのだけど。
2018/04/28 06:25
以下は自分語りなので、やや退屈かもしれません。
私のはなし
私は、岐阜の世帯数2000に満たない小さな町に育ちました。
著者と同年代で岐阜のど田舎で育った私も、中学時代に将来のこと、進学のこと、そうしたものを考えるような余地、想像力は全くありませんでした。
私自身は、小学校の頃はクラスでビリな成績だったのですが、親に言われるままに塾に行っていたら、成績がメキメキ上がって、いつのまにかそれだけが取り柄になっていました。
私が中学に入ると同時に兄が京大に入学したため、いわゆる文化資本的なものは、ほとんど兄からの受け売りでした。そういう世界があるのだ、ということを知る唯一の窓口でした。
親はそれほど勉強にうるさく言いませんでしたが、塾通いのおかげで公立の進学校に進んでも成績は保てました。なんとなく兄も京大だから自分も、と考えていて、京大すげー難しい、と気づいたのは高校3年生のときで、あえなく浪人しましたが。
1年間学校も行かずに、受験勉強だけをする、というのは思った以上に長く、いろんなことを考えさせられるものでした。本を読む時間も十分にあり、大学入学時に必要な文化資本レベルのものは習得可能でした。
私は文系学部出身ですが、中学のころから、本を読むのは好きでした。本好きであることが周りに知れ渡ると、自然と本好きの友達(主に女の子)が集まってきて、交流できるのが嬉しくも楽しかった、というのが長く本と付き合うきっかけですが。
ともかく、受験時には余裕で合格できるレベルにまで学力は上がり、おかげで入学後も気後れすることなくそれなりに楽しく過ごせました。
簡単な私事の紹介からも、田舎から都会への「アクセス」の鍵が少し見えてくるように思います。
見えている世界の違う友人
私は日々の自分の生活を見ることに精一杯なのですが、同じ田舎の岐阜から東大・京大に進学した友人たちもまた全く違う世界を見ています。
同じ高校から東大に行ったH氏は、大学卒業後、世界銀行やユニセフなどで働き国際教育学の博士課程として現在もアメリカで学んでいます。
岐阜高専から京大に入ったY氏は、構造最適化の分野で京大の助教として活躍し、海外各地で講演などもしています。
同じように田舎から国立大に進学していても、見えている世界は全く違います。
中学・高校と過ごした環境が特別な何かを与えていたのかは私にはわかりません。でも、彼らがいま見ている世界は、はるか遠くの進んだ専門のその先の世界です。
あるいは、地元で大学に行かなかった友人たちも、また違う世界を見ています。
中学の同窓会で会った友達の多くは工場で働いていたり、現場監督をしたり、トラックの運ちゃんをしていました。女の子の多くは、主婦として子育てに奮闘していました。
それは私が中学のときに見ていたのと地続きの世界で、とても懐かしくどこか親しみのある世界でした。
「同窓会に出てくることのできる人」という意味では、まっとうに人生を送れている人フィルターがかけられていますが、「偶然」の恩恵に預かれなくても、教養を知らなくても、日々の生活を楽しく生きることはできます。
地元にずっと住み続ける、というのは、私の知らない世界の一つです。いろいろな面倒ごとや退屈もあるのかもしれないし、都会の生活を憧れていても叶わなかった、ということもあるかもしれません。
それでも、それで幸か不幸かが決まるものでもありません。少なくとも、私が出会った人たちは幸せそうでした。
「都会」は機会に恵まれている
大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
個人的には、モノや情報の格差よりもコミュニティがないことのほうが大きかった気がする。ちょっと変わった趣味・興味が全く共有できず、大衆化されたものしか話題にならない。
2018/05/02 08:14
こういった話題が熱くなるのは今に始まったことではありません。
2008年~2009年あたりにかけて、多くホッテントリ入りしていた『ミームの死骸を待ちながら』というブログをご存じでしょうか?
この話題が出たとき、真っ先に思い浮かんだのは、このブログの下記の記事でした。
おそらく、彼も同年代だと思いますが、東京を「選択できた」人です。そして、おそらく同じようなことを感じています。彼の文章の方が、直接的な物言いで分かりやすいと思います。
東京にいると機会の数が(文字通りの意味で)桁違いに多いということ。アンテナに引っかかる情報量がそもそも違うし、アクションの選択肢が豊富にある。
ネットにより機会は平等になったと思いきや、むしろネットを活用して情報を得る習慣を持ちアンテナが高い地方の人ほど、機会の不平等を切に感じるのではないかと思う。
習い事を始めるとしたら教室、勉強会やオフ会をやるとしたら参加者が集える場所、バイトするなら勤務地と職種と時給。何か買うにしても、手にとって見ることの出来る大型店舗が重宝する。その全てにおいて、そしてその全てを同時に満たしうる環境として、東京に勝る場所はない。
私が田舎で感じていた不満は、彼と共通しています。全く話題がかみ合わなかったのです。「本」にまつわることだけ話せる友人はいましたが、サブカルチャーな音楽や映画、文化的なものを語れる人はほとんどいませんでした。私自身の知識も相当に軽薄なものでした。
「京都は売れないアーティストに優しい街だ」と、かつて自身も売れないアーティストだったSCRAPの社長が言っていましたが、東京もある意味似たようなところがあり、マイノリティでも集まって生きることのできる場所があり、そうした場所に行けば話の通じる人は必ずいる、あらゆるコミュニティにあふれた街です。
東京で就職したときは、とにかく楽しくていろんなコミュニティに顔を出していました。おかげでできた友達もたくさんいて、本当に仕事と遊びをするにはいい街だと思いました。
再び地方を意識したのは、子どもが生まれてからです。夜の外出も休日の外出もすることができず、物は高く、人も多く、子どもは保育園に入れない。いつのまにか東京にいるメリットを十二分に享受できなくなりました。
「教育」が重要と感じられるかどうか
結局のところ、私は大阪にきて、主夫をしています。
浪人していたとき、もう一つ大きな「偶然」がありました。
とにかく親に申し訳ない気持ちでいっぱいで、一年間は積極的に家事を「手伝う」ようにしました。手伝うというよりひたすら「教わる」というのが正しかったのですが。京都に出て一人暮らしをしても困らないように、という程度の打算的な考えもありました。
そのときのことを今は、本当に感謝しています。私が主夫として全く家事を苦にならないのはそのおかげだからです。
もし、主夫をせず、ひたすら仕事だけをしていたら、私はそのとき親に教わった「家事」を重要なものと感じられなかったと思います。主夫でなくとも、共働きが一般的になり、家事能力の有無が家庭生活の運用上、これほど重要なものである、ということは、とても当時は想定できるものではありませんでした。
同じように、都会の大学に出て、多様な機会に恵まれた人たちのコミュニティに加わり、それらを享受する側にならなければ、それまでの「教育」を重要と感じないのではないかと思われます。
問題は、「教育」が重要なものであると田舎において感じさせること、です。
なにが、平凡な田舎育ちの人を教育に向かわせる「ブースト」となるかは、私の例も、現代ビジネスの例もそれぞれだと思いますし、現状ではそれは偶然でしか得られないものなのかもしれません。
ただ「ブースト」となるような、仕掛けを地方にもたくさん作ることはできるのではないでしょうか。都会の生活を知る人が地方に入ることもまた、その一つでしょうし、夏休みのあいだ中、東京で暮らしてみる、というのも面白いと思います。
あるいは、そうしたものはもう既にあふれているけれど、それに届かない人にどうアプローチするか、というところまで深く掘り下げる必要もあろうかと思います。
この連載企画が(続くのか知りませんが、)そうした動きやイベントを発生させる方向に向かえば、それなりに意味のあるものになるのでは、というところで、また注視していきたいです。