半強制的な参加で得られる「ご近所」という資源
子どもだけで学校に行くということ
娘が小学生になりました。
ようやくそれが実感できたのは、子どもが「行ってきまーす」と家を出て行って、妻と私だけが家に残されたときです。
子どもの声もなく、静かな二人だけで過ごすリビングで「なんだ、このすごく穏やかな時間は…?」と思ったのが、子どもが小学生になったことを実感した瞬間でした。
子どもが一人でどこかに出かける、ということは今までほとんどなく、夫婦二人だけでいる時間もほとんどありませんでした。
今まで保育園に預ける時間以外は、ずーっとべったりと子どもにくっついていたのですが、これから子どもだけでできることがどんどん増えるにつれて、その距離は自然と離れていくのだし、それが成長なんだな、というのを思います。
ただ、子どもを遠くから見守りつつも、親は親でその地盤を固めておかないといけない、と感じたのが「ご近所づきあい」です。
ご近所づきあいの必要性
保育園時代は、四六時中親が見ているほかは、ほぼ保育園オンリーにおんぶにだっこしてもらっていたので、あまり必要性を感じませんでしたが、小学生になるとご近所ネットワークにも頼らざるをえない、と実感しています。
大学時代の恩師、落合先生が、1980年代の自身の家族研究の調査にまつわる統計データから、こんなクイズを出しています。
「近所の人たちがつくる育児ネットワークは、都市部と郡部のどちらで盛んだったでしょうか?」
日常のあいさつをする、などの通常の近所づきあいは、大方の想像どおり、郡部の方が盛んだった。しかし、子育てをめぐる近所づきあいに限っては、予想を裏切り、都会の方が盛んだった。
その理由として、
親族から孤立した核家族は、親と同居の世帯に比べて、子育てをめぐる近所づきあいに熱心だということもわかった。つまり都会に住む、親族に頼れない人ほど、やむにやまれず近所の人たちと育児ネットワークを作っていたというわけだ。
としています。
親族の力が借りれない分を地域のネットワークを補い、常に定量のネットワークが子育てには求められる、ということから「育児ネットワーク一定の法則」と呼んでいるそうです。
上記のように、都市部で子育てをしている方はよく実感していることと思われますが、転入出が多く、もともとのつながりが薄い地域では、その育児資源を確保するために小学校のシステムが一定の育児ネットワークを作ることを強制しているのではないか、と感じています。
「登下校」時のつながり
まず、「登下校」です。冒頭の場面では、子どもが一人で家を出ましたが、その後近所の子たちと集合して学校に行きます。(その様子を毎日ベランダから見ています)
集団登校という決まりがある学校、無い学校いろいろありますが、特に小学一年生の場合、一人だけで学校に行くということはあまり無いのではないかと思います。
そこで、近所の子たち(あるいは兄弟と)と示し合わせて連れだって行くことになるのですが、子どもたち同士だけで約束の時間を決めて行くのではなく、そこには当然、親どうしのおぜん立てが発生します。
誰と、何時に、どこに集まって行くか、といった事前調整を行います。その地域での育児経験が浅い場合、そもそも誰が近くに住んでいるのか?というところからの手探りになります。
「連絡帳」というシステム
登下校にも関連しますが、極めつけがこれです。
「連絡帳」とは学校の先生と保護者の間での情報伝達を行うためのノートですが、その連絡帳を持っていくのは「子ども」です。
連絡帳には、学校からは必要な持ち物、時間割、予定などが書かれ、一方保護者は体調不良、遅刻早退・欠席などの事由を書きます。
でも、自分の子どもの欠席連絡を自分の子どもが連絡帳をもって伝えることはできません。
そこで「近所のいつも一緒に行く子あるいは兄弟」に預けて持って行ってもらう、というのが通例となっています。
遅刻・欠席の電話連絡はなるべく避け、この連絡帳で行うように、というお達しが学校説明会では行われることと思います。
とても、前時代的で信じられませんが、この非効率な作業を先生も保護者も受け入れています。遅刻早退・欠席の連絡なんて、クラウドの勤怠管理に近いシステム入れれば、済みそうな話なんですが、それはおいといて、「近所づきあい」が無ければ、この連絡帳というシステムは成り立ちません。
これは地域ネットワークの必然性をあえて作るために、やってるものではないかと思われます。面倒なやり取りが発生するシステムをわざと作って、子ども同士、親同士でつながりを作りやすくする、というものです。
連絡帳の賛否についてはこれまでもいろんなところで話題になってると思うので、それには触れません。ともかく、このシステムを受け入れる以上は、地域のつながりが不可欠になります。
地域のつながりを得ることで、複数の子どもがいて長年小学校に通わせているベテランの保護者から学校に関する情報を、重要なものから些細なものまで得ることができ、決して悪いことばかりではありません(余計な情報も多く入ってきますが)。
違和感があるとすれば、親の社交性が子どもの学校生活に影響してしまう、というところかと思います。
「居住地域」という大雑把なくくりで決められたグループには、良くも悪くもいろんな人がいます。
近しい考えや文化、あるいはルーツを持った人同士のコミュニケーションよりも、それらがバラバラの人同士のコミュニケーションのほうが当然難しくなります。
表面上の付き合いだけなのでそれほど難しくない、というかそれが「オトナ」の付き合いだろうという意見もあろうかと思いますし、それが嫌なら同質性の高い私立に通わせるのが筋なんでしょうが、公立の学校に通う多くの親は、適切な距離を保ちつつお互いを活用するスキルが求められてきます。
よくある「ママ友」の世界ですが、それが避けては通れない感じになってきた、というところでしょうか。
離れた場所で地盤を固める
いまは、子どもたちを少し遠くから見守りながら、その遠くの場所で、子ども同士がなんの遠慮もなくお互い助け合えるような関係づくりの土台を作っているように感じます。
どんなお母さん、お父さんなのか、わからない子どもと一緒に学校に行く、その子に連絡帳を預ける、というのはやはり人によっては不安なものであるのかもしれません。
親同士の仲のよさが子どもどうしの関係性に影響してしまう、というのはあまり健全なものとはいえない気がしますが、だからといってそんなことで子どもの足を引っ張りたくたくないなぁ、というのが本音のところですし、地縁も重要な子育て資源であることには変わりありません。
半強制的なPTAによって得られる資源
PTA活動や自治会などの活動自体も賛否はあると思いますが、それらの活動は、自分の労力と引き換えに、こうした地域の育児ネットワークという資源を得ることができます。
うまくできてるというか、このあたりPTAが半強制的でも許されてきた所以なのではないかと思います。参加が半強制的であることで、地縁を作ることに消極的(受動的)な親にもそうした資源を得る機会がもたらされる、というところです。
私自身も、これまで団地の自治会長や保育園の保護者会長をやってきて、労力の提供の代わりに得た資源がたくさんあるので、それらを有効活用して、子どもの小学校生活を見守りたいと思います。
(まとまりなくだらだらと書きすぎてしまったけれど、とりあえず。*1
*1:そのうち推敲します)