京大卒の主夫

京大は出たけれど、家庭に入った主夫の話

『社会学はどこから来てどこへ行くのか』という問い

タイトルの本を読みました。

ある程度、文系の思想史に明るい人、社会学系統の大学院生向けだと思います。出てくる著名な研究者、知らなくても読めるけど、知らないと何の話か全く分からない気がする。というところで、あまり親切な本ではありません。

私も正直、深い議論になると訳が分からないので、下記は表面的なところの紹介になります。

社会学はどこから来てどこへ行くのか

社会学はどこから来てどこへ行くのか

 

著者のブログから

これについては、著者である筒井先生、稲葉先生がそれぞれはてなブログで書いています。

shinichiroinaba.hatenablog.com

 

jtsutsui.hatenablog.com

稲葉先生がブログに書いている通り、社会学は地味な学問なんだから地味にやろうよ」というメッセージは、読んでいてすごく伝わります。稲葉先生は俯瞰している立場で、あまりメッセージは発信していませんが。

「地味にやろうよ」という発信は、ここ最近メディアに出ている「社会学者」?のイメージが相当に悪いという危機感からくるものではないかと思います。

その辺は、私も同じようなことを書いています。

lazyplanet.hateblo.jp

ツッコミどころとしては、この4名は派手にメディアに出るタイプの社会学者でもないし、筒井先生はややジェンダー寄りであるものの、 全員男性が語っておりゲストにすら女性が出てこない、たまに上野千鶴子先生の話は出てくるけど、すぐに炎上してしまってイチャモン付けられることの多い界隈の話題がない、というところです。

あえて、触れなかったのかもしれません。 

現代思想2018年7月号 特集=性暴力=セクハラ――フェミニズムとMeToo

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社会学』ってなんだ?

話の中心は、これに終始しています。

社会学は、「社会問題を研究する学問である」としつつも、じゃあ「社会問題」って何?誰が決めるの?本当に問題なの?それを調べてどうするの?というところが、バラバラで、標準的な手続き・理論がありません。

 

筒井先生のブログでは、

社会問題は、それ自体多様で、異質な人々が交錯するところにあり、また時代と社会に応じて移ろいやすい。こういった社会問題にアプローチするには、もう少し人々の問い/方法/理論(概念)の方に近づいていく必要がある。この方向を突き詰めるのがエスノメソドロジーだが、それ以外の社会学も、問い、方法、理論を人々のそれから受け取っている度合いが(他の学問に比べて)格段に強い

としていて、「社会」あるいは「人々」という対象がそもそも概念的に緩いものだから理論としても緩く、ある種の素人くささやいい加減さがある、と指摘しています。学問としての標準的な手続きが弱いのです。

筒井先生は「それでいいじゃん」という立場だと思いますが、それではダメだという危機感を募らせているのが北田・岸の両名です。

 

ちなみに、北田先生は社会学の理論を、岸先生は主に沖縄をフィールドに質的調査(インタビューなど)をそれぞれ得意分野に持っています(筒井先生は家族社会学の分野で量的調査を)。北田先生は本当はサブカルの話をさせるととても面白いのですが、それは封印されるようです。

ともかく、皆全然違うことをしているのに「社会学」をやっている、と。そのふわっとした感じはどこからくるのか。

 

社会学」だけ見てるとなかなか見えてこないし、難しい話に込み入ってしまうのですが、この本を読んでいて他の学問と比べてみるとわりと分かりやすいと感じました。

全く異なるものとの比較

理系の実験や経済学などのシミュレーションの場合、同一条件下で、同じものを比べる、というのが大前提にあると思います。同じ条件である作用を施したAと何もしていないBで結果はどうなるのか?というものです。当たり前の話ですね。

でも社会学にはそれがありません。同一条件下の社会なんてものは存在しないし、行為者である人間もまた同一の存在はいないからです。だから、大規模な調査でも、国際比較してフランスとドイツと日本の少子化対策の違い、みたいなのを調べたりします。

 同じ統計を使っていても、その比べ方が違う、と。同質なものではなく、異質なものどうしを比べる、というのが一つの特徴です。

 

ただ、アフリカで貧困層のフィールドワークをして聞き取り調査をしている人に、じゃあ今度はインドで調べてみたら?と言ったら、その人はとても怒ります。それは全然違うものだし、私が調べたいのはそういうことじゃない、と。

「比較」はあくまで一つの手段で、その対象だけしか調べないということも社会学では有り得るからです。

社会学以外の専門の人からみたら、「訳が分からないよ」となると思います。

 

対象そのものを取り扱う

比較をする場合、多くの場合、状態や性質の変化を見るはずです。こういう経済状態でこうした施策をしたらどう変わるか?をシミュレーションしたり、Aという物質にBという物質を加えたら、どうなるか?など。

しかし、例えば「ボランティア」という社会的事象について研究をするとき、手始めに行うのは、「ボランティア」とは何か?という問いです。

「ボランティア」という言葉自体、比較的新しいものです。が、昔にもそういう言葉ではなくても似たような行為はありました。また、ボランティアにも様々なものがあります。その当人がボランティアであると意識せずに、ボランティア行為をしていることもあります。何をもってボランティアとするかはとても恣意的なものです。

そのような定義自体が移ろいやすいものを(無理やり)定義する、そしてそこに内在する課題・問題点を抽出するという作業から、研究が始まります。

それは、A→A’という変化を見るというより、徹底してAだけを研究するというものです。

Aという言葉の定義はどのように変わってきたか、どのような社会で多く見られる、Aという行為をしている人は何を考えているのか、その集団の内部では何が起こっているのか。

・・・とか、やってるとそれだけで卒論レベルのものが終わってしまいます。大規模な調査は学生にはできないし、せいぜい統計にあたって概要を語り、一部の集団において聞き取りをする程度が精一杯でしょう。

「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学―

「ボランティア」の誕生と終焉―〈贈与のパラドックス〉の知識社会学―

 

アフリカの例えに話を戻すと、フィールドワーカーは、アフリカの貧困層を調べるにあたって、当然その社会の成り立ち、構造を把握して歴史的な事情も頭に入れたうえで、彼らのおかれた状況での生き方を観察しています。

それでも、観察される側とする側の関係性のなかで、十分な答えを引き出すための時間と労力は、それこそ膨大なものを費やしています。なぜ、そこまで徹底するのか、というほど徹底してようやく面白い研究に結びつきます。 それと同等のレベルで比較するには、同等の年月をそれに費やすことになります。単純に、リソースの限界があります。

都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌―

都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌―

 

上記の本は、 徹底した観察から生まれたものの最たる例だと思いますが、小川さやか氏は約10年近い年月をアフリカ零細商人のコミュニティで過ごしています。彼女自身の存在がコミュニティに与えている影響ももちろんあるのですが、そうした中で紡がれた関係から彼女が観察した世界は、とても面白いものです。

比較は社会学において大事だけれど、問いに対する解法の部分において、絶対ではないということです。

ハンセン病療養所を生きる―隔離壁を砦に

ハンセン病療養所を生きる―隔離壁を砦に

 

 他者を理解できるのか?

では、そこまでの年月を費やして「何か」を理解しようとして、本当にその何かを理解できるのか?という疑問も生まれます。

それはマジョリティからの一面的な理解でしかないかもしれないし、ある意味で「理解する」ということ自体が、一方的に意味を押し付けるような暴力的な行為でもあります。誰だって「オタクって~だよね」とか「フェミって~だよね」とか分かった風に言われたら嫌です。そのような「理解」の仕方は間違っていると思います。

対象を慎重に取り扱うこと、その集団の集団らしさを損ねないこと、一定の方向性に導かないこと、そうした方法論を学び、丁寧に言葉を聞き取り、その対象を記述します。

その記述は「理解」ではなく、対象そのものを「スケッチしたようなもの」です。そうやって、ある事象の輪郭を浮かび上がらせるような作業をしているだけです。理解したいけど、理解してはいけない気がする、というジレンマのなかでちょうどよい距離感を探っています。

そうした、慎重な態度・立場を取る、というのも社会学らしさなのだと思います。

 

社会学は人気なのか?

社会学は、なぜか人気があります。私が大学にいた頃も、軽く定員越えしていましたが、幸いなことにサボる人ばかりで授業で席があふれることはありませんでした。

今も、(文学部の中では)就職に有利、などという理由から人気のようです。まともに社会学を学んでいたら、社会を斜に見ることしかしないので、就職には悪影響しかないのですが、たぶんそんなことはないようです。

一般的な感覚だと、社会学=楽のイメージが強いのだと思います。

「社会」を扱うわけで、それこそ何を対象として研究やっても許される空気感がある。なにも興味がないけど、とりあえず「何か」に属さなきゃいけないから社会学に行く、という学生も多いはずです。必然的に質も悪くなるし、中途半端に学んだ人が社会学出身の知識人としてメディアに出てしまうと本当にろくなことにならない、ということも発生します。

 

ただ、教育課程のなかで、フィールドワーク・統計などの授業も組み込まれつつ、概念や理論も一通り学ぶと思うので、バランスの良い学問ではあると思います。

統計学入門 (基礎統計学?)

統計学入門 (基礎統計学?)

 

少なくとも普通に勉強すれば、ニュースがフェイクかどうかという一般的な基礎教養(統計の母集団の怪しさ、手法の正しさ、グラフのごまかしなど)は、とりあえず理解できるようになると思います。

社会学を学ぶとこんないいことあるよ、というメリットといえばこのあたりかもしれません。加えて、幅広い視点の取り方、問いの立て方を学ぶ、というところで学問としての差異化をどこまでできるか、というところかな、と。 

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

社会学入門 -- 社会とのかかわり方 (有斐閣ストゥディア)

 

 

社会問題そのものを研究する意義

社会学の良さは、そうした間口の広さと、様々な方法論を学べる教育課程にあると思いますが、一方で社会学という割に「社会」においては役に立たないじゃん、という評価をしばしば受けることがあります。

社会問題や特定の事象だけにスポットを当てて、研究することの多い社会学では、「問いの立て方」「それに対する答えの組み立て方」「正しい手続きによる正しいやり方での調査」といった部分にはとてもこだわりを持っているが、肝心の答えの部分でほとんど提言をできていません。

社会学はどちらかというと、その前段階の部分を重視しているからです。他の学問からすれば、社会学は扱うものの「素材」を作っている学問として役に立っています。

ニート」なんて言葉を作ったり「~ハラスメント」という言葉を作ったり、「~の誕生」とか「~世代」とか言ってみたり。それ自体役に立つものではないけれど、それらが「素材」として使われることで、問題に光が当てられ、議論を呼び起こすことができます。

 

それでも結果が重視される昨今では特に、ただ偉そうに現状分析してるだけのインテリと言われたり、それで結局何がしたいのかわからない、と言われたりします。

そのあたりの問題意識から、うまく社会にコミットできる提言をするために、今のカリキュラムが統計手法重視になっているのかと思いますが、だからと言ってそれまで重視してきた手続きの部分を疎かにしちゃいけないよね、というのが北田先生のいう「普通の学問」としての社会学のコアなところなのかと思います。

 

その学問が「役に立つかどうか」という話自体、かなり整理の必要なものだと思いますが、「役に立つかどうか」で言えば、計量的に調査して提言まで持っていくやり方も、質的調査で深くまで対象を掘り下げて観察するやり方も、それぞれの面白さがあって、結局は「なにかの役には立ってるかもしれない」というところでしょうか。 

lazyplanet.hateblo.jp

普通の学問、ってそういうもんじゃないのかな、と思います。『ドラえもん』のように、いつでも役に立つものが出てくるとは限りません。

 

「社会」というあやふやなものをどう取り扱えばいいのか?という、そもそも論を中堅の社会学者たちが改めて議論する、という企画を立てるところからも彼ら(北田・岸)の危機感は非常に感じますが、そういう危機感は当事者だけが感じ取って頑張っていただいて、周りは面白く読んでいける本かと思います。

音楽性の違い、とかでバラバラにならないことを願っています。バラバラにまとまっていてください。

 

尚、本文は私個人の雑感にすぎないので、ガチに「社会学」 をやってる人の感想ではない、というところをご注意ください。私はただの趣味人です。

 

ということで、そろそろ普通の主夫ブログに戻ります。

 

※文中の書籍群はオススメの社会学系の本です。 

家(チベ)の歴史を書く (単行本)

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