京大卒の主夫

京大は出たけれど、家庭に入った主夫の話

フェミとオタクと社会学者という釣り針

閑話です。

このブログは主夫の書いている育児ブログですが、一応、文学部の社会学専攻卒なので、ここ最近の騒動はあまり他人事には思えません。

 

一通り統計も研究の作法も習ってはいるので、なるべくは資料にあたりつつ、自分ごとについては「主夫」というフィールドで調査をしている感覚で、身近なものをなるべく社会と照らして書いているつもりですが、あら探しをすれば当然たくさんほつれてるところはあると思います。

 

以下、だらだらと綴ります。 

質の担保について

社会学に限らず、学問の質、論文の質、学会の質、それぞれをどのように規定し、担保するか、という問題は、それぞれの扱う専門領域で異なってくるかと思います。過去の偉大な思想家たちの時代に査読なんていうシステムがあったかは知りませんが、それでもそうした思想家の本はその後の研究に大きな影響を与えています。社会学でいえばウェーバーとかデュルケムとかがその始まりでしょうか。でも、彼らはあまり統計的な手法は取っていません。

 

社会学でも統計的調査がメインのものであれば、統計手法やその分析については査読などの方法で正当性・信頼性を高めることはできるし、理論の援用についてもその扱いが間違っていれば指摘できると思います。

一方で、参与観察(フィールドワーク)やインタビュー、オーラルヒストリー研究等においては、そのすべてを録画・録音していたとしても、完全に信頼性を担保することは難しいと思います。聞き取り者との関係性、その時の雰囲気、言葉と言葉の間、それらすべてはその研究者本人でしか感じ得ることができないものだからです。

 

結局のところ、基本的な論文の形式(読める日本語)などが整っていることは当然として、その内容については一つ一つ見ていくしかないわけで、それが論文であれ、著書であれ、ウェブ記事であれ、不明瞭な部分や間違っている部分があれば、学問の内外問わず、批判されるべきです。

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(※うちの子の日記です)

社会学者とSNS

総じて、社会学者はSNSをよくやる割には、マーケティングが下手だと思います。

ウェブマーケティングに精通した専門家ではないので当たり前なんですが、観測範囲の狭いSNSに時間を費やすことはそれこそ主夫である私でもできることなので、せっかく研究環境の整った場所と地位に身を置いているのであれば、ご自分の研究に専念したほうがいいのではないか、と思います。

SNSで不毛なやり取りを繰り返すのではなく、専門性の高い環境の中で良質な研究を積み上げていくことのほうが、結果として社会学の学問的な評価は高まるはずです。

だいたい社会学の価値を下げているのはSNS上で賑やかな人たちです。

SNSをやるのであれば、仕事としてプロとして自覚していただいたうえで自説のプロモーションなりをしていただきたい、というのは社会学徒の端くれからのお願いです。それこそ、研究会でも開いてどういう発信の有り方が望ましいのかマーケテイングの専門家を交えて議論していいものだと思います。

 

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炎上の意味を考える

そして、SNSを発端に、タイトルにあるような登場人物が主語になる話題は最近よく燃えています。話がかみ合わなかったり、尾びれがついたものだったり、いろんな事情があるにせよ、いろんな方面から反発がくるような問題提示の仕方については、その意味について考える必要があるのではないかと思います。

news.yahoo.co.jp

これは最初の記事が大きく炎上し、それを踏まえたうえで2発目の炎上記事となったものですが、この記事を見る限り、このトーンで語られる言葉はそれほど反発を呼ぶものではなく、これが初発の記事であれば、さほど騒動にはならなかったのではないかと思います。

rainbowflag.hatenablog.com

このブログも非常に冷静な視点で書かれています。

私は、このキャラのことを全く知らないので、彼女については語ることができません。

が、こちらの記事を読んで、VRという仮想現実上のキャラクターである以上、現実の社会の影響を受けざるを得ない「社会を映す鏡」としてこのキャラクターが語られてるのだと感じました。

ドラマでもマンガでもアニメでも、「社会を映す鏡」は、社会学者が大好きなものの一つです。「エヴァ」だったり「逃げ恥」だったり、分析するの好きです。

もちろん、社会学者が取り扱うのは「社会」であって、「鏡」ではありません。だから、鏡そのものであるこのキャラクターを批判することはないし、批判すべきは「社会」の側なんですが、その点で誤解されたり、もし実際にキャラクターを攻撃していたりするのであれば、それは反省すべき点だと思います。

 

フェミとオタク

どちらも主語が大きいです。「社会学者」も非常にあいまいな定義です。

 

主語を大きくして語ると、関係のない人まで巻き込むし、相手への敬意も薄れます。

フェミもオタクも一枚岩ではない、ということは当たり前のことですが、まず相手は誰なのかを具体的に意識して議論する必要があります。

なぜネット記事の見出しは主語が大きいのかと言えば、それが「釣り針」だからです。

自分のことが書かれているのかも、と思うとクリックして内容を確認したくなります。そして多くの場合、それらは見当違いのことであり、多くの批判を招きます。その批判がまた、新しい訪問者を呼びます。主語が大きいほど、PVが取りやすいのです。

 

「妄想は誰にも止められない」

オタク文化を学ぶうえで、参考になるのがげんしけんという漫画です。

大学のオタサークルを描く漫画ですが、このなかでも「オタク嫌悪」の女性キャラが何人か登場します。その子たちが、どのようにその文化を受け入れていくのか、というのがこの漫画の一つの主題になっています。

「妄想は誰にも止められない」というのは、この漫画における数多くの名言の一つですが、それが頭の中にあるうちは、誰にもそれを止める権利はありませんし、止めることもできません。それをどこまで公にしていいのか、というところが表現の「マナー」の部分だと思うのですが、「マナー」それ自体が社会の中の常識というあいまいなもので規定されているものだからこそ、その線引きが難しいものになります。

 

オタクの多くの人は控えめで、それらの表現物をきちんと隠して持ち出していることと思います。彼らに「隠す」という行為をさせているものは、社会の無意識の「抑圧」であり、「どうして自分の好きなものを堂々と宣言できないのか」「私たちは大多数の圧力によって行動を制限されている」など、「抑圧されてきた側(女性や性的少数者)」を守るための(フェミニズムと同じ)論理で語ることができてしまいます

少数者を責め立てるような論理でこれらのことを語ってしまうと、自分自身が行ってきたこととの矛盾が発生してしまうばかりか、多くの反発を招く結果にしかなりません。

げんしけん」での「オタク」をめぐるそれぞれ攻防は、少なくとも相手のことを受容したうえでうまく折り合いをつけていきます。その過程を学ぶための資料として、大変参考になる漫画です。

 

「気づいたらなっているもの」

もう少し「げんしけん」の話です。もう一つ名言があるとすれば、「オタクはなろうと思ってなるものでなく、気づいたらなってるもの」というものです(うろ覚え)。

これもまた、いろいろなことに当てはまる表現です。「フェミ」になろうと思ってなくても、一通りの理論をある程度学問的に習って理解してしまうと、その立場で語らざるを得なくなります。twitter界隈の「フェミ」はよく知りませんが、アカデミズムにおける「フェミニズム」は、それほどきちんと筋が通ったものです。単純に面白いです。

でも、だからこそ無自覚に自分の考えが「当たり前」になっているのではないか、と疑う必要があります。本来きちんと説明を積み上げなければ相手に伝わらないものなのに、それもなしにいきなり拒否反応を示すことは、やっぱり誤解を招く行為だと思います。

住み分けが本当に正しいのか?

公共空間における表現という意味では「住み分け」「ゾーニング」をすべきだ、という議論があります。この手の話はずいぶん昔からあり、たとえば下記の記事は2010年のものです。

www.itmedia.co.jp

オタクの文化は性的なもの一色では当然無いし、アニメ絵が全て規制されるべきかといえばそんなことはありません。社会的な文脈によって、それらは性的にも健全にもなり得るものであって、一概に線引きするのが難しい。

そうしたものをゾーニングをする場合、「誰が」ゾーニングするのかによって、全くその意味合いが変わります。そして限られた区画のなかでしか表現できなくなる人にとっては、それ自体が弾圧に感じることもあるでしょう。

公共領域においては誰にとっても素晴らしい最善解はなく、誰にとってもちょうどよい最適解を目指す必要があります。そのゾーニングが「正しい」かどうかを決めるのは、どのような人なのか、社会なのか、それこそ社会学者が追及すべき課題でもあります。

娘を持つ親として

当然、娘を持つ親として子どもを守りたい、という思いを持っています。ただ、おそらく絶対に手に取ることもじっと見ることもないだろうコンビニ本よりも、手に取る可能性の高いHUNTER×HUNTERのほうがずっと避けて通りたい本です。

説明するまでもなく普通に読む分にはとっても面白い漫画ですが、とても残虐で歪んだ内容を伴っています。『ゴールデンカムイ』なんかも同様です。

それらを読ませるまでには、段階を踏みたいと思っています。段階を踏まずにそれらに触れさせるのは、念能力もないのに、いきなり能力者と戦うようなものです(洗礼*1ですね)。

インターネットなども同様で、ネットの海にはゴミがいっぱいあることや、個人情報の重要性、ネット特有の文化、マナーなどを身につけさせるなかで、いつかオタク文化に触れることもあると思います。そのときに十分な耐性をつけていれば、それほどリスクを与えることは無いのではないかと思います。

子どもたちが、自分自身が性的な対象や被害者になるかもしれない、という危機感は、残念ながら常日頃からくる警察からの「不審者情報」によって身についています。毎週のように不審者情報のプリントを持たされ、親のメールに配信され、一人で出歩かないように、と皆が注意して行動しています。

オタク文化が自分の子どもに危害を加える可能性よりも、ずっと高い確率で、子どもたちの身近なところに危険性が潜んでいます。それは時に分かりやすい悪意ではなく、善意の形をして子どもたちに近づいてくることもあります。

親としてはその身近な危険から身を守ることを第一にリソースを集中させたいです。それに比べれば、ゾーニングの問題は些細なことのように思えます。  

とにかくさけんでにげるんだ わるい人から身をまもる本 (いのちのえほん)

とにかくさけんでにげるんだ わるい人から身をまもる本 (いのちのえほん)

 

 

まとめ

フェミニズムも社会運動である以上、発信力の強いtwitterを使いたくなる気持ちもよくわかるのですが、まずは落ち着いてください。相手にわかる言葉を、最低限の敬意を、お互いに。自戒を込めて。

 

 

 

*1:何も知らない状態で能力を伴った攻撃を受けることで、非常に大きな痛みを伴うものの、その後の能力開花が早い。