ポジティブな話をしたので、バランスよくネガティブな話をします。
タイトルにある『82年生まれ、キム・ジヨン』という本を読みました。
内容については、詳しくは下記の記事や、公式にも特設サイトが作られていますので、そちらから引用します。
『82年生まれ、キム・ジヨン』は、韓国で2016年10月に初版2000部で刊行されました。キム・ジヨン氏(韓国における82年生まれに最も多い名前)の誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児までの半生を克明に回顧していき、女性の人生に当たり前のようにひそむ困難や差別が淡々と描かれています。
そして彼女はある日突然、自分の母親や友人の人格が憑依したように振る舞い始め――。彼女を抑圧しつづけ、ついには精神を崩壊させた社会の構造は、日本に生きる私たちも当事者性を感じる部分が多々盛り込まれています。
韓国ではその共感性の高さから、国内だけで100万部という異例の大ベストセラーとなりました。
いわゆるフェミニズム文学ですが、ただそれだけであれば100万部のベストセラーにならないでしょう。本書は、精神が崩壊した主人公の主治医(精神科医)の手記という形で、淡々と彼女の身に起こったことが記述されています。それはその年代のごく普通の韓国人女性の歩んできた人生です。
彼女は、正社員として働き、結婚し、子どもも生みました。それだけ聞くと、とても順調な人生に思えるかもしれません。それにもかかわらず、なぜ彼女は狂ってしまったのか。彼女を狂わせたものはなにか。
彼女自身の人生を描くことで、彼女のまわりにある空気・社会そのものの輪郭をあぶりだしている、そうした作品です。言うまでもなく、彼女を狂わせたのは、女性への社会的な抑圧であり、それにがんじがらめになっている彼女自身を含めたすべての当事者です。
この物語に、特に救いはありません。
彼女はいかにして救われるのか
この物語が問いかけるのは、「彼女がこうならないために『私たちは』どうすればよかったのか?」です。
訳者あとがきからの引用になりますが、原書の解説を書いたキム・コヨンジュ(女性学専攻)は、
「彼女一人で解決できないことは明らかだ」とし、この本を読んだすべての人がともに考え、悩むことからすべては始まるだろうと示唆しています。
これは、「キム・ジヨン」だけの固有の問題ではなく、「私たち」の問題です。
タイトルに固有の名詞が使われているのは、固有の問題がそのまま普遍的な社会問題につながっていることを強調しています。
韓国も、日本と同様にジェンダーギャップ指数のランキングは144か国中、118位(日本:114位)と低いです。
こうした社会において女性たちがあげ始めた声は、女性嫌悪、バックラッシュ(反動)などさまざま形で現れます。#Metoo運動の盛り上がりによって、女性を忌避したり、男性だけで集まろう、みたいなことが起きるようなものです。そうした反応が、この問題を解決するものではないことは、自明だと思います。
記者がセクハラに遭うなら、男性だけが記者になればいい、というのは被害者にも加害者にも社会にも向き合っていない態度です。
ネガティブなメッセージを受けとめる
一般に、ネガティブなメッセージを発信する場合、小説という形を取ってそれが発せられることが多いです。人間の心の闇や社会の暗部などといったネガティブな描写や言説が通りやすいからです。
先日「ネットでは書けない自分の残酷な部分を小説では書きたい」と言うと「それを書いて何になるのか」「誰にポジティブな影響を与えるのか」と聞かれた。でも私にとって文学とはカタルシスで、自分に対しての、そして世の中に対しての「赦し」なんだよなあ。ポジティブというよりはネガティブの肯定。
— あかしゆか (@akyska) 2018年10月6日
それらを発信すること、あるいは受け止めることもまた、ポジティブな言説と同様に必要なことです。
実際には、うまく逃げ道を作ったり、根性で乗り切ったり、用意周到に立ち回ったりと、たくましくあらゆる知恵や手段をつかって乗り越えている人もたくさんいます。でも本当にたくましいその姿は、普段あまり光が当てられないことが多いように思います。
それをポジティブに発信することも、ネガティブに発信することも社会にとって大切なことのように思います。「保育園落ちた、死ね」はネガティブな思いの発露かもしれませんが、「保育園落ちたけど、私頑張る!」じゃ届かない層に届けるためには必要な発信です。
社会がそれによって、1ミリでも動くなら、ネガティブなメッセージにも十分に意味はあるし、それを見ないふりせずにきちんと受け止めることをしたいと思います。