「生きづらさ」を抱えながら、どうやって日々の生活を営んでいけばいいのか。
公的な支援を受けることで、十分でなくても安定した暮らしの「助け」になるということを以前、書きました。そのうえで、「就労すること」そのものがケアになる、という視点でこのテーマについて考えています。
しかし、当たり前のことですが、仕事にはストレスがつきものです。仕事がうまくできないことで、自己肯定感が損なわれ、かえって症状が深刻化する恐れもあります。
仕事がうまくできず、自分のことを「低スペック人間」だと思ってしまう。あるいはそう思われてしまうことの不安、実際に低評価を受けたことによるさらなるストレスなどによって、あっけなく就労が困難になることは大いにあると思います。
低パフォーマンスは誰のせい?
仕事は何らかの価値を生み出すものであり、その対価として報酬を得ることができます。一般的には、その「価値を生み出す能力」の高低で、報酬の多寡も変化します。
また高い価値を生み出す仕事のほうが「やりがい」や「達成感」も得られやすいでしょう。そうした報酬を伴った「達成感」はそのまま自己肯定感につながり、「生きづらさ」を相殺する力を持ちます。
しかし、全ての人が自分の特性にあった最適な職場で仕事ができ、パフォーマンスを最大に働かせ適正な評価のうえで適正な賃金が得られれば良いのですが、そうでないケースのほうが多いのではないでしょうか。
病気や障害の有無にかかわらず(このフレーズは度々登場します)、自分の力をうまく出し切れない状況は、当人にとって非常にストレスです。
そしてパフォーマンスが出せないことはそのまま低評価につながり、もらえる報酬に負の影響を与えます。
勿論、障害を抱えている人のパフォーマンスの低さは、その程度に応じて「合理的な配慮」がなされるべきものです。
しかし、困難な特性を持つ人を受け入れている現場においても、そのパフォーマンスの低さを、どこまで障害や病気に起因するものとみなすか、本人の成長ややる気・能力による「伸びしろ」あるいは「失敗」はどの程度あるのか、などに苦慮しています。
下記の記事の冒頭では、そうした現場の声が伺えます。
実際に発達障害のある人を採用し、共に働いている方からよく聞かれる質問がある。
「やる気の問題なのか、障害特性なのかがわからない」
「性格なのか、障害なのかがわからない」
「どこまでが配慮なのかわからない」
こうした悩みを打ち明ける職場はいい職場だと思います。その人の障害特性と向き合っているからこそ、出てくる悩みだからです。そして、それは当事者も同じように悩んできたことなのだと思います。
性格なのか障害なのか?
医師の診断によって障害名が明らかな場合は、まだ分かりやすいです。
それは、障害であり、その人はつねに「困難さ」を抱えている。その共通認識のうえで、対等な立場で仕事ができるよう優しすぎず無理させ過ぎない「合理的な配慮」を行い、仕事をする。
ただ、実際に「生きづらさ」を抱える人の中には「性格以上、障害未満」といった特性を持った人も多いでしょう。
私がうつ病で会社を休職するとき、関係ある職場の人たちにその旨を伝えました。すると、何人もの人から「実は私も昔・・・」「今も通院してる」などといった返信をもらいました。中には「うん、分かってた」という人もいましたが、それらの「生きづらさ」を隠して懸命に仕事をしている人は、たくさんいるのだと改めて気づきました。
ADHDやASDなどの特性とよく似た傾向の言動をしているとしても、その診断がつかないこともあります。いっそのこと診断がついてくれたらいいのに、と思う人もいるでしょう。
精神科医として著名な香山リカさんは、そうした「言いたがる人」の多さと、「言いたがる人」の弱さを利用して、不当に儲けようとする悪徳な支援事業者が少なからずいることへの警鐘を鳴らしています。
言うまでもなく、強引な説得や一方的な援助は支援でも何でもありません。障害や病気を受け入れるべきだ、という価値観を当事者や家族などに押し付けることもまた、支援ではありません。
「病気ではなく怠け」という診断
「自分をADHDと思いこんでいるただの低スペック人間多すぎでは?」という考えに共感する人は相当数いるものと思われます。鬱は甘え、気持ちの問題、と考える人もいるでしょう。生きづらさを抱える当の本人でさえ、判断がつかずに悩んでいるからこそ、そう思い込むのだと思います。
そうしたグレーゾーンにあるような人に「ケア」は必要なのでしょうか。
おそらく医者によって全然言うことが異なるし、障害と病気では全くアプローチも異なるとは思いますが、同じく著名な精神科医である斎藤環氏は『承認をめぐる病』という著書において、現代的「うつ病」を「怠け」と捉えることを次のように批判しています。
「病気ではなく怠け」という「診断」は、誤っているのみならず有害ですらあり得る。そうした診断によって患者は傷つけられて医療に不信感を抱き、納得のいく対応をしてくれる別の治療者を探し回るような結果につながる。
場合によっては、家族を含む周囲の人間が、医師から「怠け」という「お墨付き」を得ることで、患者に対して一層批判的になることも考えられる。
そして、求められるままに診断書を書くといった治療をするわけではなく、
当事者が社会や家族との関わりにおいて「病気」というカードを使わざるを得ない状況があるのなら、治療者としてそうした状況の解消にできる限り協力するというものである。
と寄り添う姿勢を明記しています。とても優しい立場だと思います。
「怠け」である、と述べることは、より当事者を追い詰めることになります。かといって、様々な診断結果を経て病気と判断されなくても、その人の抱える「悩み」「つらみ*1」に寄り添う支援者がいることは、低スペック感を抱える人にとって救いになります。
また先ほどの記事で、LITALICOの野口晃菜さんは、
性格であろうが障害であろうが、困難な状況は必ずその個人とその個人を取り巻く環境との相互作用の中で起きている。原因は個人の障害特性のみに起因するわけではない。
仮に障害特性があったとしても、その人に合った環境があったら、その人は生きやすくなる。そして、それは障害のない人にとっても同じである。
と述べています。障害の有無にかかわらず、その人の特性にあった環境を作り出すことも、また「低スペック感」を解消させる一つの有効な手立てです。
上記の点をふまえ、障害の有無にかかわらず「生きづらさ」を抱える人の低スペック感を解消するには、支援者が寄り添いながら、単に障害特性を治すだけではなく、その人の取り巻く環境をうまく作り変え、円滑な相互作用が生まれるような「つなぎ直し」を行う支援が必要である、と考えます。
そしてそのための社会的な投資が行われるべきであると主張を続けたいと思います。
では、そうした支援への社会的投資は、社会にとって合理的なことなのでしょうか。とても嫌な言い方をすれば、そんなにまでして低スペックな人に配慮する必要があるのでしょうか。
低スペックな人への支援は合理的なのか?
以前、堀江貴文氏が、「生産効率の悪い人が働くことは社会的に無駄だ」という趣旨のことを言って、炎上したことがあります。生産効率の悪い人=障害者と受け取る人が多かったこともその原因の一つです。
そういう人は働いたほうが社会全体の富が減って結果として自分も損するって事に気付いてない。生産効率の悪い人を無理やり働かせる為に生産効率のいい人の貴重な時間が無駄になっているのだよ。
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2015年8月20日
あのさ俺差別発言なんかしてねーよ。障害者だろうが健常者だろうが働いたらその分社会が損する奴がいるって書いただけ。
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2015年8月21日
RT @ToshioW2014: 障害者を一区切りしてませんか?発言力ある方が差別発言した時の反響わかって言ってますか?私は三年前から義足になった者です!
多分頭の悪い読解力のない奴が勘違いしてそういう風に書いてんだろ。障害のあるなしと仕事のパフォーマンスはあんまり相関性ないよ。クズは障害がなくてもクズのまま。
— 堀江貴文(Takafumi Horie) (@takapon_jp) 2015年8月21日
彼は、障害の有無にかかわらず低スペックな人に対して、適切な支援をしたり、サポートのための制度を充実させたりすることに優秀な人のマンパワーを使うことは非合理的だ、という趣旨でこの発言をしているものと思われます。
彼の中では、福祉制度はベーシックインカム一つで十分で、面倒で複雑な制度設計で申請者側も役所も大量に書類を抱え込むことが、とても滑稽なことに感じているのだと思います*2。
徹底した合理主義者である彼の考えも分かる部分もありますが、一方で、多くの「生きづらさ」にまつわる問題は、そんな単純に解決されないだろうと思います。
彼の論では、彼の言うところの「クズ」を見限っているからです。それは何も失うもののない「無敵の人」を増やすだけです。理想とは裏腹に不幸な事件が増えるのではないでしょうか。
人が生きることは、面倒で厄介なことです。面倒で厄介な長い人生のなかでいつ起きるか分からない「生きづらさ」に対しては、冗長なシステムのほうが有効に機能する、と思います。
堀江氏のように強い精神と並外れたセンスの持ち主は、何もかも失っても、再び立ち直ることができています。しかし、全ての人がそうとは限りません。そのときに頼れるものが、最低限のBIしかないという状況は、多くの人にとって酷です(*3。
人それぞれ個性があり環境が異なるなかで、それぞれが抱える「生きづらさ」は多様です。それを解決するための方法もまた多様であるべきです。多様な解決方法でもって、低いパフォーマンスしか出せない環境のほうを変えていくことが必要になります。
そのことに対して、自分は普通にがんばっているのに、支援を受けている人だけ「ずるい」と思う人がいるかもしれません。
それは、生活保護受給者に対して貧困ラインぎりぎりの人が、「あいつらは働いていないのにお金をもらっていてずるい」と言うのに似ています。本当は、「ずるい」と言っている人も辛い思いをしているのではないでしょうか。そして、そういう人に対しても何らかのケアが必要なのだと思います。
このあたりのことは、とても優しいスズコさんのブログが丁寧にひも解いています。
まとめ
いい加減くどいですが、まとめです。
障害の有無にかかわらず、低スペック感を抱えている人が継続的な就労を可能にするには、支援者が寄り添いながら、環境を整え、適切な相互作用が生まれる状態に「つなぎ直す」こと、そしてそのための社会的な投資が求められます。
それは社会的に無駄なことではありません。誰もがいつ「困難さ」に遭遇するか、分かりません。少なくともベーシックインカムが存在しない社会である以上、それに代替するなんらかの支援が必要です。
また、病気や障害未満であっても、「病気」というカードを使わざるを得ないほど当事者が悩んでいるのなら、そうした状況の解消のためにできる限り支援されるべきです。そうした人への支援が「ずるい」と思うなら、その人もまた支援を受けるべきです。
低スペックなのは、障害や病気のせいだけではありません。
長くなったので、今回は以上です。
では、具体的にどんな支援が考えられるのか、どんな環境なら働くことができるのか、といったことはまた次回書きたいと思います。
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