東京2020大会ボランティアの募集
先日、東京オリンピックのボランティア募集が始まりました。
はじめに断っておくと、私はオリンピックの『ボランティア』に対しては批判的な立場です。最低限、有償ボランティアの平均額程度の支給はあるべきだと思います。
ただ、そのうえで今回応募してみました。*1
応募フォームの入力に30分かかる、googleやfacebookでログインすると、いきなり英語表記になり、日本語表記への変換に戸惑う、スマホで見るとフォームが見づらい、誤って送信を押すと大量のエラー表示で埋め尽くされる、など、大変香ばしくトラップだらけの応募フォームになっています。
募集段階から人を不安にさせる応募フォームとか完全に終わっていますし、こんなところに個人情報登録していいのか、という思いはありますが、私はオリンピックではなくパラリンピックのほうに応募しました。(たしかに登録するのに30分かかりました)
以前も書いた通り、オリンピックのほうはおそらく簡単に集まるだろう、と思っています。
理由は、海外からの応募、出場選手・関係者の応募が多く、かつ企業の動員、学生の単位取得など、最終的にはなりふり構わず集めようとするから、です。
アテネ五輪などは外国人ボランティアが過半数を占めていたようです。やりがい搾取だと国民的な批判を浴びていたとしても、海外からの応募で集まる可能性があります。
(※募集要項のFAQを見ると、短期滞在ビザで可能とあります)
下記、ラジオで外国人への門戸が閉ざされている、というくだりがありましたが、どうやら開くようです。
(※とびばこパンです。ちょうどいい写真が見つからず。)
ボランティアの物語
上の記事の仁平さんの分析は素晴らしいです。
国がボランティアの多さにこだわるのは、「民度の高い国民が自発的に支える大会」という物語を求めるからだろう
こんなにボランティアが参加する我が国は先進的な「おもてなし」の国だ、という物語を描きたいから、とにかく数を集めたい、と。
自発的に五輪ボランティアに参加する、というのは、この大きな物語に意図せず参加してしまうことであり、それは「やりがい搾取」だと言いたくもなるわけですが。
ただ、参加する一人ひとりの個人にとっては、もちろんそんな物語はどうでもいいわけです。良くも悪くも労働力としては搾取されながら、個人としてはエンターテイメントやイベント参加型の体験として、そこそこ楽しめるのではないかと思います。そこにあるのは、国が描くような大きな物語ではなく、個人の物語です。
「ボランティアは、自己犠牲なのか?」というのは、必ずしもそうではなく、他人のためだけでなく自分も楽しむことができる活動であれば、それはそれで良いことです。もちろん、報酬が得られるのなら、もっと良いです。
自分も楽しむ、自分にもメリットがある、さらにいえばそれで報酬がもらえる、ということをもっと前面に出してもいいと思うのですが、 それを言い出しにくい雰囲気がスポーツ全般にあるのではないか、と感じています。
スポーツと職業
ここからは、ボランティア論ではなく、「スポーツを生業とすること」について少し考えたいです。
考える上での元ネタはこちらです。(読まなくても大丈夫です)
どちらの記事も、日本でのスポーツビジネスの難しさを語っています。
日本はアマチュアリズムできて、スポーツで商売をするのは何かなという感じがあったのが、プロ野球、Jリーグ、Bリーグとプロのスポーツが発展してきて、やはり周りに与える影響も大きいということで、本当に発展途上だなという気がする。
プロ化する、そのことがお金に替わる、そういう風なことがある種汚いとは言わないけどスポーツマンシップに反するかのような考え方が主流を占めていた
どちらも言い得て妙なところがあります。オリンピックは商業的だという指摘と、日本のプロスポーツは20年遅れているという指摘は、同じ事象をそれぞれ逆の立場で見ています。『カネ』が前面に出ると批判が強くなり、『カネ』がなければスポーツそのものが衰退してしまう。
そして、その「やりにくさ」がプロになれなかった、なりきれない多くのスポーツ選手の生きづらさにつながっているように思います。
オリンピックが商業化したのは、1984年のロサンゼルス大会からと言われています。
それ以前のオリンピックは東西冷戦の影響もありボイコットする国も多く、盛り上がりに欠ける様相で衰退の一途を辿っていました。それを大改革し、スポンサーや放映権などのビジネス化に着手したことで黒字化に成功し、その後五輪大会が発展したのもまた事実です。*2
商業化するオリンピック:スポーツ界におけるメディアの影響力 – Inaba Lab
先日の学童の話で、フランスでは地域の文化・スポーツの担い手として、正規雇用の人材がいる、というところは非常に興味深く、同時に「アートやスポーツで稼げるようになりたい」という子どもの夢を、プロまではいかなくとも実現可能なレベルまで落とし込むことができるとしたら、こういうところじゃないだろうか、と感じました。
逆説的なようですが、「スポーツで、カネを稼いでいい」という雰囲気を作るためにボランティアに参加するのもアリだと思っています。
五輪のボランティアは非日常的な”お祭り”の担い手ですが、そのときの高揚感やスポーツへの関わりを日常に持ち帰り、持続可能なものにする段階で、単なるボランティアではなく職業として可能なレベルでの地域スポーツの担い手(指導者)のあり方について、多くの人が考えるきっかけになればいいなと思います。
危機感の共有を
地域のスポーツの担い手について調べていると、部活動の教員参加を含め、かなりの割合で『ボランティア的な労働』 が見られます。それについては後日改めて記述しますが、今のところ日常的なスポーツ産業で儲かっているのは、会員制のジムやフィットネスクラブくらいです。
少なくとも、オリンピック以外の大会で、10万人に近い規模の人が短期集中型でスポーツ周辺事業に関わることができる機会は無いと思います。
様々なバッググラウンドを持った多様な人材が、実体験を持った当事者としてスポーツビジネスを語ることができれば、日常におけるスポーツ文化やクラブ活動などにも正の影響を与えることができるのではないか、という期待を、この大会のボランティアに込めておきたいと思います。
より平易な言葉で言えば、スポーツの「遅れてるなぁ」という側面や文化的な危機感みたいなものを、もっとみんなで共有して変えていけたらいいな、と思うのです。
そうでもしないと、本当に東京オリンピックとか、ありがた迷惑な話でしかないので。