京大卒の主夫

京大は出たけれど、家庭に入った主夫の話

『舞台の上の障害者』から考える

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これは、ちょうど1年前の記事。知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、障害者19人を殺害された相模原事件から1年経った2017年7月26日のもの。

そして、次の記事が今年の7月26日のもの。

news.yahoo.co.jp

ともに、同じ記者が書いたものです。そして、どちらにも義足のダンサー・女優である森田かずよさんの言葉が寄せられています。

障害を抱える人の当事者である彼女は、今回の杉田氏のLGBTへの発言について、

 と述べています。

同じように、生きることそれ自体に価値があり、生産性の有無という議論の俎上に乗ってはいけない、という指摘は多数みられます。しかし、それをきれいごとにすぎないと切り捨てる人もまた多くいることでしょう。

「生きていることに価値がある」とは確かに理想的であり、優等生的な考え方です。貧しい見方をすれば、それは「きれいごと」なのかもしれません。では、それを「きれいごと」とする言論に対し、どのように抵抗すればよいでしょうか。

森田かずよさんのこと

ここで、上記の記事の主要な登場人物である、森田かずよさんのことを少し書きたいと思います。ちょうどたまたま読んでいた知人*1の本に詳しいので引用します。

舞台の上の障害者 ─境界から生まれる表現─

舞台の上の障害者 ─境界から生まれる表現─

 

(※専門書なのでなかなか置いてないですが、県立図書館か大学などで借りるのをお勧めします)

森田さんの抱える障害は、二分脊椎症、右手第一指欠損、右胸部肋骨欠損、先天性側彎症、髄膜瘤、右足脛骨欠損、仙骨欠損、神経因性膀胱、 脊椎空洞症、アーノルドキアリ、など病名で挙げるときりがない、それほど重度で、重複した障害を持って生まれ、生後半年で、身体障碍者手帳1種1級が発行されたそうです。

母親は、手記によると次のように当時を振り返っていたという。

「私は考えていたのだ。どうやって警察に厄介にならずに娘を死なせることができるのか。殺人ではない別の方法で」

医師からもすぐに亡くなる可能性が高いと言われ続けていたこともあり、当然精神的に追い詰められた結果のことだと思います。

一方で、すぐに亡くなるといわれたかずよさんは、機能障害は続いているものの、その後も生き続けます。そして、母親自身も「あなたと私は違う人間で、あなたの苦しみや辛さはわからないけれど、あなたと私は認めあって、ともに生活をしていく」と、障害を受容し、互いに生きることに肯定的になります。

しかし、それでも「表現」がしたい娘が言ったときには、抵抗があったといいます。

それは障害者として舞台に上がることが「見世物」になるのではないか、という不安からくるものでした。その後も、かずよさんは演劇やダンスといった舞台の上の「表現」の世界に傾倒していき、次第に母親もその意義を認めるようになります。

その変化には、かずよさん自身の「表現力」が飛躍したことにもあるでしょうし、数を重ねるなかで「障害のある人が舞台の上でなにができるのか」を深く考え始めた(面白くなってきた)、というのもあるのだと思います。

そして、かずよさんと母親は共同でダンス教室を始めます。かずよさんは現在もダンス教室を運営(出張のレッスン教室等も)しながら女優としての活動を続けています。

 

かずよさんの表現者として生きる世界は(というか有名どころではない演劇の世界全般的に)サブカルチャーと言われる分野であるかもしれません。かといって、彼女の舞台の芸術性が王道モノに劣るとか、そこに優劣があるわけではありません。

とりわけ、アールブリュットと呼ばれるような障害のある人が主体となって作られる芸術の世界では、彼らの表現はやや異質な力、独自性を持ったものとして高く評価されることもあります。

長津氏の記述によれば、彼女はさまざまなアートプロジェクトでのかかわりの中で、人と向きあうことで作品をつくるという態度を身につけ、障害の当事者性ではなくあくまで身体性にこだわった作品作りを行いました。障害を持つ自分を演じるというよりも、身体的な美を探究する精神を貫くことで、見せ物的な要素を超克します。そして、健常者であるアーティストと時には傷つけあい、「しんどい」思いをしながら「せめぎあうような関係」を作り、既存の価値概念とは異なる芸術表現を身につけていきます。

活動のなかでの自身や周囲の「葛藤」や価値観の「幅」が、「見たこともない作品」を作り出す原動力となり芸術へと昇華した、と長津氏は述べています。

より分かりやすい言い方をすれば、彼女の演技は「障害者なのにすごい」でも「障害者だからこそできる」でもなく、彼女とそしてその周囲の支援者とのたゆまぬ努力で生まれた、彼女だけのものだからこそ、その才能が認められているのです。

しんどい世界でもいい

やや回りくどい話になりましたが、森田かずよさんが、表現活動を通じて得た「いま」は、そのような「葛藤」や「しんどさ」のなかで生まれたものであり、決して「きれいごと」などではない、ということです。

僕が何とか頑張って生きていける生活環境の中でも、そこには(ほかにも)排除されている人たちがいて、僕自身の生活を守るためにも、そういう人たちを含めたある種多様で混沌として、なかなか効率的に進まないかもしれないけれど、というかたちの社会につくりなおす。しんどいかもしれないけど、そんな様々な人たちと対話を続けていくような社会のほうが結局は”楽”なんじゃないかなと。

(『見えないものを観せる身体ー価値観を揺さぶる身体芸術』砂連尾理*2

これは、森田かずよさんとプロジェクトで関わった振付師の砂連尾理氏の言葉です。

LGBTにしても、障害にしても、それは個性ではなくただの事実です。その事実を他の誰かが否定したり、なかったことにすることはできません。

舞台の上にたつ人だけでなく、もっと普通の日常で普通に生きている「困りごと」を抱えた人がたくさんいます。そうした人が生きづらいままで暮らすより、生きづらさを少しでも軽くして、たくさんの人と相互作用を起こすような社会の方が、「しんどい」こともあるけれど、面白いことが起きるような気がします。

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*1:長津氏は、新潟で行われている地域アート『大地の芸術祭』の展示の一環で知り合いました

*2:『舞台の上の障害者』(p.143)より