京大卒の主夫

京大は出たけれど、家庭に入った主夫の話

「社会の受け皿」ってなんだ?

最近、痛ましい事件がなんだか続いていて、そのたびにテレビを消して情報を遮断しています。それでも、どうしても耳に入ってくる情報は心苦しく、犠牲に遭った方の冥福をお祈りして、こんなことは二度と起きてほしくない、と思うばかりです。

 

blog.lalamiamor.net

これを読んでいて、本当に壮絶なリアルを語った重い話だな、と思いました。

もともとのnenesanの記事も読んでいて、やはり反射的に、「そうした人でも生きられるような環境を作る、というのがせめてもの予防策なのでは」とコメントしたくなったのですが、それはただのきれいごとに過ぎない、と思い何も書くことはできませんでした。

nenesan0102.hatenablog.com

「社会社会言うけどその社会って一体何よ?って感じがする。地域コミュニティ?学校や職場の同僚?法制度?行政や政治家?自分より上の世代?その辺の通行人?」

この、ブコメの端的な物言いが、「社会の受け皿」という言葉のむなしさをよく表しています。

「社会の受け皿」ってなんだ?

社会の受け皿って、なんなんでしょう。

社会の一員である私たちは、どう受け止めたらいいんでしょうか。

 

私自身も、鬱を抱えていて働けなくなったクチですが、だからといってそういう人の生きづらさを「分かる」なんて、とてもおこがましくて言えません。

人それぞれ、「障害」といってもその程度の差は大きく、その人の周辺環境や関係性、経済状況、などによっても全然深刻さは違ってくるでしょう。

 

理想を言えば、そうした障害の程度に応じて、適切な治療と対人援助・生活指導にアクセスできて、かつ家族などの主たるケアラーにも配慮ができるような専門家が充足していることが、「社会の受け皿」たるものなのかと思いますが、こうした分野で尽力されている専門家の数は実際には限られていて、公的なリソースも不十分です。

 

実際には公・民・共・私のあらゆるリソースを使いこなして、自身の生活と障害を持つ対象者の生活を継続的にハンドリングしていく力が、主たるケアを行う家族に求められます。現実に、ケアをするにも生活するにも、お金を稼がなければならないし、助けてくれる「誰か」は事件が起こったときだけしか同情してくれない。

彼らの日常は日々、ずっと続いているけれども、周りの人はその断片だけを見ることしかできない。

 

ただ普通に働いて生きるだけでも大変なのに、どれほどの熱量をもってケアを続けなければならないのか。そして、それがいつまで続くかも分からない、解決するかもわからない、という状況は、簡単に人を壊します。

 

では、どうしたらいいのでしょうか。

発達支援の専門家であり、現場での理解も深い野口晃菜さんは、下記のように言葉をつづっています。

note.mu

ひとを増やしたり、資源を増やしたり、仕組み化するのはもちろん、していかなければならないと思う。同時に、孤立している誰かがいたら、誰かが踏み込まないと難しかったりするのかもしれない、とも今回思った。無理やり踏み込むのはよくないけれど、ある種の「おせっかい」「心配性」が命を救う時があるのかもしれない。一人で踏み込んで距離をつめるのではなく、みんなで距離を縮めていく。そういう風にありたい、と改めて思う。

一人の人に、できることはほとんどありません。みんなで、やるしかない。

虐待であれば189、怒鳴り声やケンカの声があれば110。

鳴き声や怒鳴り声が聞こえても、もしかしたら全然大したことないかもしれないし、育児で悩んでいて本当に困っているのはお母さんやお父さんのほうかもしれない。それでも、専門家につなぐことができれば、解決の糸口は見つかるかもしれない。もちろん専門家でも解決できないかもしれない。

通りすがりに、激しく子どもを責め立てるような親に出会ったら。大声で喚き散らす中年のオッサンに出会ったら。お金をせびるおばあさんに出会ったら。とにかく、189か110。声を掛けて止めるのは怖いと思う。止めるなら必ず2人以上で。

通りすがりの僕らは、後のことまでは、責任が持てないし、持たない方がいい。

 

もし、自分の家族が重い障害を背負ったら。専門家の意見を仰ぐ。たくさんの人に話を聞いてもらう。話をする。どうにもならなくなったときの逃げ場所を作る。

 

もし、自分が障害を背負ったら。子どもへの憎悪が止まらなかったら。

頼れる人をとにかく頼る。いろんなことをあきらめる。専門家を探す。話をする、なんとか生きられる工夫をする。

 

安楽死」は、法的に認められる可能性は低い。それを認めることは「社会」が、受け皿としての器がないことを自ら表明することに他ならないから、です。

なるべく見つかりやすいように、かつ静かに、後処理のしやすい形で自殺するのが、本当にどうしようもなくなった時にできることなのかもしれませんが、それもまたとても悲しいことです。

救いようがない話ですが、どうにかして生きていくしかないのだと思います。

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