京大卒の主夫

京大は出たけれど、家庭に入った主夫の話

家事はどこまでサボっていいのか?

佐光紀子さんの『「家事のしすぎ」が日本を滅ぼす』を読みました。

タイトル通りの本で、タイトル以上のことは言っていません。おっしゃる通りです。

ご本人の書いた記事もあるので、これを読めば十分かと思います。

toyokeizai.net

みんなもっと、サボろう。「サボる」ことに抵抗がある方は、以下の文章は全て効率化・合理化と読み替えてください。私は効率化のほうが仕事っぽくて抵抗があります。

 

以前も書きましたが、1日における家事の時間は、こんなに便利なものが増えているのに10年間で5分しか短縮されていません

lazyplanet.hateblo.jp

以前の記事では、家事に限らず労働時間が短縮されない理由として、取引相手や先輩上司などと共同で仕事をするなど、自分ひとりではどうにもできない外部要因が大きいのでは、というところを指摘しています。

一人暮らしであれば家事に時間などほとんどかけないし、自分のペースでできるのでさほどストレスはないでしょう。

でも結婚・同居し、出産を経て、複数人の家族になれば、自分流の家事ではなく、相手の家事の流儀と合わせる必要もあり、また生活スペースを共にする以上、他者と関わらずに家事をするのも不可能です。親と同居ならなおさらです。

また、家の外で他者と関わるPTAや自治会、ママ友・同僚との付き合いだって、立派な家事の一つです。近接地域の関係構築は、生活面での相互扶助を促し、リスクヘッジになるからです。

 

家事の外部化にある抵抗感

家事を外部化することも、家事の時間を短縮する一つの重要な施策ですが、実際にはあまり実施されません。

オートロックのマンションが標準的であるような日本では、家庭の中は私的領域であるという意識が強いこともその一因としてあると思います。

もちろん、セキュリティやプライバシーも重要です。

会社の仕事をアウトソーシングするとき、必ずNDA(秘密保持契約)は結ぶでしょうし、システムを使う場合、そのシステムのセキュリティや個人情報の取扱いについては、必ずチェックするでしょう。

同様に、家事代行などにおいては、他人が私的領域に入り込む以上、セキュリティ・プライバシーそれぞれの配慮が不可欠です。

物を盗まないとか傷つけないとかは当たり前として、あの家こんなに汚かった、とか派手な下着を洗ったとか、外で言われたら困るわけです。

 

家事をサボった時間でできること

だらだらテレビをみたり、ゴロゴロと漫画を読んでてもいいと思うのですが、これが外部化してお金を払っている場合だと、2時間3000円(仮に)で時間を買ってテレビを見ているようで、なんとも無駄遣いしているような気持ちになるんじゃないでしょうか。

 

いや、ゴロゴロするのも大事なんですけど。みんな、もっとだらだらしよう。

 

でも今家事にかけている時間を一日3時間として、そのうち2時間が自由になるとしたら。

本は1冊くらい読めそうですし、ブログの記事も1本か2本書けそうです。1日2時間資格の勉強ができれば、簡単な資格なら数か月でも取得できそうです。

Amazonで映画見たり、お酒飲んだり、ちょっとカフェに出かけたり。それが毎日できるなら、充実してる感ありますね。

 

 

でも、家事はどこまで放っておいていいんでしょうか。

 

サボっていい基準(掃除編)

掃除・洗濯・風呂などの「綺麗にする」系の家事は、衛生上、病気になりやすいカビや埃、雑菌などから守る、という目的で行われますが、実際にはそれ以上に気分的に気持ち悪いからとか、べたつくのが嫌、とか、人目に付くときに困る、などより過剰に行われることが多いです。

 

上述の佐内氏の記事には、

「家事をちゃんとやらなきゃ」信仰にとらわれている女性は多く、なかなか手を抜けない。手を抜くことで罪悪感を抱いてしまうという女性は多い。

日本の主婦のほぼ半数(48.4%)が、「トイレ掃除は毎日すべき」と考えている。これに対し、そう思っている夫は2割弱。また、食器を1日3回以上洗う人の割合は、日本では55.5%。イギリスでは27.3%、アメリカでは8.3%、スウェーデンでは7.7%という大きな開きがある。

トイレ掃除毎日、食器は1日3回以上洗う人が半数もいる、と指摘。

 

また下記の記事には、

toyokeizai.net

日本で明治末期頃から昭和40年代にかけて普及した「ちゃぶ台」が登場する前は、各自の「箱膳」があり、食後に茶を注いで飲み干したり、布でぬぐったりするだけで格納し、食器を「洗う」のは数日に1回だった

というような話もあります。

また、少し前にこうした話題もありました。

togetter.com

せめて月2回は~から始まり、週1、5日に1回、やがて毎日シャンプーへと変遷していきます。

 

なんだか清潔至上主義批判みたいになってきましたが、そんなつもりはなく、でもたまにサボるくらいはいいんじゃないでしょうか、というくらいに留めておきます。

 

参考程度に、楽天リサーチの2013年の調査結果を下記に貼っておきます。母数は多いのですが、ネットアンケートなので、おおよその目安くらいに考えた方がいいと思います。これを見ると週一程度の掃除頻度も多くて少し安心します。

f:id:lazy-planet:20180605171727p:plain

リサーチデータ(2013年)家庭用洗剤に関する調査|楽天リサーチ

 

また、石鹸や洗剤に関する情報や統計は、日本石鹸洗剤工業会のHPが詳しいです。上述のシャンプーの歴史なんかも載ってます。正しい手の洗い方、みたいな子供向けのポスターもダウンロードできたりと、暇つぶしに見ていると面白いです。

jsda.org

洗剤やシャンプーなどの販売高の推移はこちら。一時的に下がっているのは、環境問題などで化学薬品などが騒がれた時期かと思われます。それ以降順調に推移しているところをみると、繰り返し除菌を訴えるCMの効果は十分に発揮されているようです。

 

ともかく、このあたりの統計と自分の価値観を照らし合わせ、掃除などの頻度を見直してもいいのではないでしょうか。

 

f:id:lazy-planet:20180605172914p:plain

f:id:lazy-planet:20180605172923p:plain

サボっていい基準(食事編)

食事(料理)については、空腹を満たし栄養を摂る、という最低限の目的のほか、料理の味を楽しむ、時間を楽しむ、などの効用もあります。

ただし、その前後には献立の構想から買い出し、調理、片づけ、皿洗いといった作業が発生し、単純に作って食べるだけではないのがこの家事の時間がかかるところです。

皿洗いの部分は食洗機で自動化できますが、食洗機に入れるまでと食洗機から棚へ片づけるなどの前後の時間も発生するので、実際には皿洗い全体の7割ほどしか自動化できていないのではないかと思います。

献立作成~買い物~調理の時間はどれほど短縮できるでしょうか。

最近では、買ってすぐ食べられるお惣菜などの中食市場がスーパー、コンビニの主戦場となっており、市場規模が拡大しています。

スーパーなどの店舗のリニューアルを業界用語で「活性化」と言いますが、ここ最近活性化されたスーパーは必ず中食コーナーを大きく取り、コーヒーを飲んだり電子レンジで温めたりできるイートインスペースが設けられています。

買ってその場でも食べられるし、家でも食べられるし、便利ですね。簡単に調理できるお惣菜のクオリティもどんどん上がっています。

www.nikkei.com

また下記のアンケート結果をみると、消費者の意識も徐々に変化していることも分かります。

www.jmar.biz

あらかじめ65項目のメニューの選択肢を挙げ、月に1回以上、食卓に登場するメニューを聞きました。主食メニューをみると、主婦の回答では「カレー」「和風めん類(そば・うどん等)」が8割を超えて高く、次いで「パスタ・スパゲッティ」が7割以上、「焼きそば」「チャーハン・ピラフ・焼き飯」「丼もの(牛丼・親子丼等)」「ラーメン等中華めん類」が6割台で続きます

いわゆる単品でいけるお手軽メニューです。カレー、ラーメン、うどん、パスタ、丼もの、焼きそば、チャーハンを月1回以上作ることは、多くの家庭では一般的なようです。この際、週1でカレーでもいいんじゃないでしょうか。献立作成が大幅に楽になります。そしてカレーならホットクックが作ってくれます。

 

また、出来合い品の利用も増加してます。60代の伸びが顕著で面白いのですが、60代のほうがスーパーの新商品に敏感だったり、意外と柔軟に活用する傾向があります。

逆に30代は料理自体への関心の強さもあるようです。料理自体が楽しい、ということであれば、それほどサボる必要もないのかもしれません。忙しくてサボりたいときは出来合い品を買えばいい。

f:id:lazy-planet:20180605174455p:plain

 

 そういえば先日、運動会があったのですが、我が家の弁当はこんな感じでした。

ミートボールやからあげ、ミニトマト、ウインナー、さくらんぼ。半分以上は詰めただけですね。買い物の時点で、お弁当作りの半分は終わっています。

お惣菜を買って詰め替えるだけでいいと思います。お弁当。

もちろん、キャラ弁みたいな凝った弁当を作るのも楽しいと思います。子どもが喜んでくれたらうれしいですし。でも、それは暇なときでいい。

 

さて、だんだんまとまらなくなってきました。

 

許容範囲を夫婦ですり合わせる

一般的にどれくらいの時間をその家事に費やしているのか、一週間、一か月という単位での頻度はどれくらいか、といったもののおおよその目安は、統計などから判断できます。ただ、その平均値から、どの程度質を落としても許せるか、という許容範囲は、個々の生活の中での価値観に大きくかかわるもので、特に夫婦間でそのすり合わせをしっかりしないと家事ストレスの原因になります。

洗濯物をきっちり畳むか、干したままにするか、そういった些細なレベルでのストレスの蓄積は甘く見てはいけない、というのは経験上語っておきたいところです。

 

こうした場合、相手が全然許容してくれない、とどちらかが嘆く結果、許容しない側に家事負担が行きがちだったり、許容しないのが悪い、となりがちですが、そうではなく、その相手の価値観は大切な他者と関わって生活する以上、受容しなければいけないものです。そこを強行突破するよりも、他の時短方法を考えたほうが有益です。

 

自分ひとりではどうにもできない外部要因のある作業は、一人ですべて完結させられるものでなければ、どんな仕事にも必ず発生するものです。

 

一般に他部署や他社に影響する業務の効率化は難易度が高く時間がかかります。まずはサボっても影響範囲の少ない場面からサボって、時間のかかる効率化は時間をかけて話し合いながら進めていくのが正攻法かな、というところで本稿を閉じます。

 

 

専業主婦でも共働きでも、尊重される社会

6月1日の記事。同じ日に、似たようなことがそれぞれ書かれていました。

中野円佳さんの記事と、河崎環さんの記事。

news.yahoo.co.jp

wol.nikkeibp.co.jp

私たちには、専業主婦か、働くかの二択しかないのでしょうか?

河崎さん(彼女は主婦を経て非常にキレのよい文章を書くライターとして活躍)は、冒頭で、このような疑問を投げかけます。

そして、主婦として資格の勉強をしている際に、「あなた、働いたことがないの? 一度も? 信じられない」という、完全に見下した発言をされ、その後口をきいてくれなかった同じ塾生の女性に出会った経験を話しています。

「真剣に働いている」キャリアウーマンから、そんなに忌み嫌われるものなのか。そんなに話もしたくないほど、価値のないものなのか。

 

中野さんのサロン参加者もまた、主婦としての自分に対するモヤモヤを吐露しています。

「出産後は家族の時間を優先し、自分のキャリアや夢はまた時期が来たら向き合えばよい」と覚悟を決めたものの、割りきれない。主婦の生活は、平日も休日もなく平凡だからか。環境の変化に伴い気心の知れた仲間が少ないからか。バリバリ働き、同僚とワイワイガヤガヤはしゃいでいたあの時間だけが、キラキラを増すばかりです。

主婦になる道を「自分自身」で選んだのに、どうしてすっきりしないのでしょうか。

この場合、自分の心の中にも、どこか無意識のうちに主婦であることに劣等感を抱いていたというケースです。

主婦であることはスティグマ(自分が劣っているというレッテル・烙印)なのか、という議論は、これに始まったことではなく、『女性活躍』 が謳われ始めてから、度々登場します。

スティグマのある人は、自分の行動を過小評価しがちです。スティグマはそうした自己制御機能を持たせるための社会的な烙印だからです。

中野さん(監修)の記事では「主婦が自分で自己肯定感を下げている」としていますが、それは本当に「自分で」なんでしょうか。正確には自己肯定感を下げるように仕向けている、というのが正しいのかもしれません。

 

withnews.jp

そして、多くの議論は、必ず「多様性(様々な選択肢)を認める社会を」で締めくくられます。 

「専業主婦 or NOT」論争の忘れ物とは、専業主婦も働く女性も、どちらも同じ一人の女性の、時期(人生のフェイズ)に応じて見せる姿にすぎないのだという考え方です。

そして、夫婦間のどういった割合で収入を得ているかのバランスこそ違えど、専業主婦であっても子育てや家事や介護に必ずなんらかの責任を負って「働いている」ことには間違いがなく、そこに敬意が払われず存在がまるで無価値のように言われるのも、おかしな話です。 

(河崎環「専業主婦か、働くか」論争の「忘れ物」)

私も、その通りだと思います。

専業主婦でもワーキングマザーでも、どちらも自分で選び取って生きているのなら、それはとても素晴らしいことです。

ここまでの流れに、異を唱える人は少ないでしょう(少なくともここの読者は)。そうした考え方が浸透し、時代が変わりつつある、というのを少しずつ感じるところです。

でも、現実に、多様な選択肢の中から自由に自分のやりたいことを選び取り、偏見も何もなく平穏無事に過ごしていく、ことは決して楽なものではなく、実現するのは奇跡のように難しいように感じます。

好きなように生きられない理由

例えば、明日から好きなように生きなさい、と言われて、会社を辞めて大好きなラーメン屋を始める、という人はあまりいないでしょう。

今ある会社の地位や給与を手放すにも関わらず、それに見合う成功が得られる確信もなく、開業資金の多大な借金を負う可能性もあるからです。

転職や、再就職が可能なレベルの経験や技量・資格のない人にとって、専業主婦とは、そのラーメン屋に近いものになります。扶養に入る、というセーフティネットはあるものの、ブランクのあるなかでの再就職の難しさは、一般に知られている通りです。男性であれば、なおさらです。

その逆もまたしかりです。今ある主婦の暮らしを手放すことが怖い、と思う人もいるでしょう。働いて得られるお金や充実感が、主婦業をする今の自分以上の価値があるのかは、実際に働いてみないと分かりません。

人は、リスクのある行動、不確実な行動を避けます。それは生きるための本能として、正しいものです。

「どんな生き方でも尊重される社会を!」というスローガンは、どんな生き方をしても安心して暮らせる保障がないと成り立ちません。

やり直せる保障、学びなおせる保障、スタートが遅くても早くても認めてくれる保障、障害があっても安心して暮らせる保障、そうしたものがあって、ようやくこの専業主婦or共働き論争は終わるような気がします。

 

「そんな保障のある社会は実現されるだろうか?」

そこで、上記の問いを立てます。「そんな保障のある社会は実現されるのか」「実現のために必要なことは何か」政治家のお仕事の命題みたいな話ですが、実際その通りだと思うので、いろんな政策を調べてみたいと思います。

 

とりあえず、問いを立てるだけ立てといて、この話は終わります。

 

wol.nikkeibp.co.jp

 

f:id:lazy-planet:20210203143913j:plain

 

『体操服の下に肌着は着てはいけない』で植え付けられる抵抗感

先日、『 体操服の下に肌着は着てはいけない』という学校の謎ルールについて、学校とやり取りしました(※連絡帳で)。

 

奇しくも、SNSでも話題になっていたことのようで、朝日新聞も下記のような記事を出しています。 

www.asahi.com

 

うちの子は、それほど汗をかく方ではないし、まだ小学1年生なので、個人的にはどっちでもいいのですが、妻が非常にモヤモヤしているのと、子どもが「先生がそう言ったから」と頑なに肌着を着ることを拒否していて(思考停止状態)、険悪なムードになってしまっていたので、学校と少しやり取りすることにしました。

学校と親、それぞれの主張

学校側の主張は、「体育で汗をかいたままの肌着をその後もつけていると、汗で体が冷えて風邪をひくから」というものです。

ただ、子どもは体操服を毎日持って帰るわけではなく、週1で持って帰ってきています。

直に肌が触れた体操服をそのまま置いておくのも不衛生なのでは?という疑問が浮かびます。また、今どきの肌着は速乾性のあるものが多く、汗で体が冷えてしまうのか?どうか疑問です。

さらに、上記の対応は1年中、冬もそうしているようで、肌着着ないのはさすがに寒いのでは?という疑問も浮かびます。

そして、SNS上の議論でもある通り、肌着にはプライベートゾーンを隠す、という役割もあります。さすがに高学年ともなれば、肌着を着る子も多いしそれらは個別に判断できるでしょうが、低学年のうちは気にしなくていいものなんでしょうか。

 

そこで、学校側に、上記の疑問を投げかけてみました。

そのうえで、個別の対応をしていいのであれば、その旨をあらかじめ「お知らせプリント」などで示してほしい。家庭での生活指導と異なるため、子どもが混乱している、と伝えました。

 

回答としては、

・体操服は、毎日洗うために持ち帰っても良い(ただ、そうしない子のほうが多数)。

・体操服が乾かなければ普通の白Tシャツでもよい。

・冬でも汗をかく、高学年は肌着を着ても良いとしている。

そして、

1年生に、人によっては肌着は着てもいいし、着なくてもいい、というと混乱を招く。学校では、一律の指導しかできないため、今後もこうしたことはあると思うが、疑問があれば常になげかけてほしい。個別に対応は考える。

という内容でした。

 

「人と違うこと」への抵抗感

結局のところ、強制力のあるルールでもないので、自由は自由なのです。

でも、1年生の子どもにとっては、学校の先生に「肌着は着てはいけません」と言われていて、自分だけが肌着を着る、ということには抵抗を感じるものです。そりゃそうだろう、と思います。子どもも、皆と違うのは嫌、と言っています。

 

そして、おそらくそうした抵抗感は、高学年になっても続きます。少し発育が早く、自分だけが肌着やスポーツブラなどをつけている、ということに「周囲と違うことをするのは嫌」という抵抗感が生まれても仕方のないことなのでは、と思います。

朝日新聞の記事では有料部分に、もう少しこのことは詳しく記されていますが、子どもだからといって、「自分で管理する権利」を軽視しているのではないか、という批判はされて然るべきだと思います。

 

私も妻もモヤモヤしたのは、謎のルールを押し付ける学校に対してではなく、人と違うことをする抵抗感を植え付ける教育、の思想です。

衛生上の問題やプライベートゾーンの問題は、それに比べれば些細なものです。

 

子どもには、学校と親の考えることをそれぞれ伝えたうえで

『汗をかきやすい子もいるし、恥ずかしい子もいるし、いろんな子がいて、親もいろいろ考える。学校の先生は一人しかいないから、皆に一度に同じことしか言えないけど、本当はいろんなやり方がある。そういうやり方でもいいですか?って先生に聞いたら、「いいよ」って言ってくれたから、自分で考えて好きなようにしていいからね。』

と、伝えました。

 

理解したかどうかは分かりませんが、同じような問題は先生の言うように今後もたくさんあるかと思います。

(強めに言えば)比較的分かってくれる先生なので、今後も少し強気でかつ平和的な解決を心がけていきたい次第です。先生も忙しいのは重々承知していますので、簡潔に連絡帳レベルで済ましたいものです。

 

togetter.com

f:id:lazy-planet:20201219160833j:plain

 

私の好きな道具たち(収納編)

以前、キッチン周りの道具について、紹介したのですが、続いて収納です。

ずいぶん前のことなので、半分忘れてますが。

lazyplanet.hateblo.jp

 

収納に関しては、会社での総務経験がかなり生きています。なんだかんだで、5つくらいの会社のそういうのを見てきているので、それなりに最適なやり方はわかってきた気がします。

 

f:id:lazy-planet:20180526063141j:plain

(リビングの本棚です。あまりきれいではないですが)

 

ニトリ】レターケース

f:id:lazy-planet:20180404144032j:plain

会社で備品のキャビネットってありますよね。

それをイメージして文房具や乾電池、工具など、必要な備品を収納しています。

でも、あんなに大きいものじゃなくていい。そこで、ニトリのレターケースです。

www.nitori-net.jp

 

これ、家庭で使う備品庫としては、一つ一つがちょうど良く文房具を収納しやすいサイズになっています。さらに仕切り板を使って最大27個のスペースを確保することができ、乾電池のサイズや、付箋の種類などによって仕切るなど、細かい分類も可能となっています。

我が家では、これを二つ並べ、テプラでラベリングしています。

無くなったら、随時LOHACO(アスクル)で補充です。完全に総務時代の仕事と同じです。

(※写真をよく見ると、中身が間違ってるとこもありますね・・)

 

ボックスファイル A4

f:id:lazy-planet:20180404144058j:plain

lohaco.jp

続いて、ドキュメント収納です。

各種の説明書、保険や携帯・インターネットなどの契約書、妻と僕の雇用関連の書類、保育園・市役所手続きの書類など、それぞれこのA4のファイルボックスに収納して保管しています。

よく、オシャレ収納雑誌では、無印やニトリの真っ白なプラスチックのが紹介されていますが、紙のほうが安いです。

我が家では、このほか、子どものピンク系雑誌(たの幼やプリキュアのぬりえ)など、本棚の見栄えを悪くするものはここに入れて隠しています。

 

ファイルフォルダ A4

f:id:lazy-planet:20180404144124j:plain

「個別フォルダー A4 5山 25枚 クラフト アスクル」 - LOHACO(ロハコ)

上記のファイルボックスと合わせて欲しいのがこちら。

紙を挟んで入れておくだけの簡単収納で、テプラでラベルをしておけば検索もしやすいという便利ものです。

経理をしていたときなど、請求書の類はこの方式で収納していましたが、これが一番便利です。経理のときは1年ごとにボックスごとダンボールに入れて保管してましたが、家庭での場合はそこまですることもなく、使わなくなったものは定期的に見直して廃棄しています。

 

テプラ PRO

そういえば、当たり前のようにテプラでのラベルが登場してきますが、これは必須アイテムです。

 

できれば高機能なものの方が良いです。印字がカクカクしないのと、早い。マグネットなど特殊なテープに対応、PCから一括で出力可能など、 いろんな面で効率化できます。

無印 ハーフボックス

f:id:lazy-planet:20180404144005j:plain

 

www.muji.net

ときどき、買えなくなるので注意が必要なのですが。上の商品の半分の高さのものです。単行本やDVD、その他手紙や便箋・紙ものの雑貨を簡単に整理しています。

単行本をこれに入れる理由は、奥のものが取り出しやすいからです。

そのほか、キッチン下の収納などにもこれを活用しています。

 

アスクルのボックス

右のほうに写っている、絵の描かれた段ボールがそれです。LOHACOで缶詰やビールなどを買うと、大きなダンボールの中に、これが入って送られてきます。

つまり無料でついてくるダンボールです。

f:id:lazy-planet:20180401153413j:plain

これがサイズ的にもデザイン的にも?非常に優れた収納グッズになっています。

(※A5サイズのものとA4サイズのものがあります)

A4のものはFits系の衣類収納ボックスにちょうど収まります。服などはこれに入れてタテ収納ができます。A4サイズの雑誌がちょうど収まります。

紙袋や梱包材などをストックするのにも使います。また、キッチン下収納で缶詰などの備蓄にも役立ちます。

とにかくサイズ感が良いので、各方面に使える優れたオマケです。

Moheim リンデンボックス PC収納

f:id:lazy-planet:20180404144216j:plain

私の作業スペースです。ピンクとグレーの木の箱にPCと周辺機器を納めています。

メカメカしいのが嫌なので、木のフラットなデザインを選んでいます。出しっぱなしにしておくので、少しいいものを使っています。

ワイン箱

居酒屋さんで500円で買ったものです。子どものランドセル入れになっています。もう一つ買ってるのですが、それは、私のカメラ道具や本が雑多に収納されています。

f:id:lazy-planet:20180404143940j:plain

木の箱なので頑丈です。立てて使えば本棚にもなります。出しっぱなしにしておける雰囲気がいいですね。子どももランドセルをここに置くだけなのでラクです。

 

IKEA ごみ入れ 

f:id:lazy-planet:20180404144427j:plain

少しわかりにくいのですが、キッチンキャビネットの裏の画像です。

ごみを分別するのに、IKEAの製品を使っています。

www.ikea.com

キャビネットの後ろに板を打ち付けて、そこに上の製品を掛けられるようにしました。

牛乳パック・缶・トレイを分別しています。

これの何がいいって、床から浮いていることです。掃除しやすい。価格もお手頃。

 

モノで解決できること

モノで解決できることは、どんどんやりましょう。正直かなりてきとうな家事ですが、収納する場所とモノと量(定置・定物・定量ですね)が決まっていれば、自然とモノは収まるし、探す手間が省けます。

運用についてはあまり書いていませんし、決してこれが万能というようなものでもないですが、モノだけでも参考になれば幸いです。

 

大学無償化で教育格差は是正されるか?

前回の続きです。

lazyplanet.hateblo.jp

前回の記事では、

・大学無償化は低所得者のみ、大半は出世払い

・学費の親負担→学生負担への移行

・学費以外の親の負担は多い

というところを確認しています。

親の負担に依存する以上、親の資力の差によって、大学進学をするか否かのところで、どうしても教育格差は起きそうです。

 

大学無償化は、やはり教育格差を是正する効果は期待できないのでしょうか。

 

教育格差は大学以前から起きている

日本における教育の私費割合が高い、というのは、いろいろなところで指摘されており、今さらここで言うこともないと思います。

文教科学委員会調査室の小林美津江氏のレポートが非常によくまとまっています。

高等教育へのアクセスの機会均等を目指して

いちおう引用します。

公私負担割合については、初等中等教育段階では公費負担割合がOECD平均を上回る水準(OECD平均 91.3%、日本 92.7%)である一方、幼児教育段階と高等教育段階では、公費負担の割合が低く(幼児教育段階:OECD平均 81.2%・日本 44.5%、高等教育段階:OECD平均 69.8%・日本 35.2%)、私費負担割合が高いことが特徴的である

 下記のグラフは、親の世帯収入別にみた学生の割合を2004年と2016年で国立・私立それぞれ比較しています。

f:id:lazy-planet:20180517160803p:plain

f:id:lazy-planet:20180517160825p:plain

 

(※日本学生支援機構「学生生活調査」より*1

少しわかりづらいのですが、国立大では年収が高い層ほど割合が増え、私立大では年収が低い層ほど割合が増えています

高所得な親の方が、国立大に通わせやすくなっているのが分かります。

また、高校までの塾などの学習費(習い事を除く)については下記のように推移しています。

f:id:lazy-planet:20180517162653p:plain

(※文部科学省「子どもの学習費調査」より*2

全体的に学習費は増加傾向にあります。つまり、大学入学以前からすでに塾などの私費が必要となるため、大学無償化による格差是正の効果は低い、といえます。

塾に通えない貧困層は、大学の学費が無償になっても、そもそも(希望の)大学に入るだけの学力を身につけることができない、という状況に陥っています。

どこでもいいから大学に入れ、ということであれば、自宅から通える範囲の難易度の低い大学を目指すことも可能ですが、塾も通えず、高校の授業レベルも低く、大学で学ぶ意義も見いだせない(近場に本当に行きたい・学びたい大学があればいいのですが)というハンデを負うことには変わりありません。

もちろん、塾なんて行かずに大学に入学する人もいるでしょう。しかし、もともと勉強のやり方を理解していて、かつ学校の公的なサポートが充実しており、情報共有できる仲間がいる、など他の面で恵まれていたのではないでしょうか。

 

以前も少し書きましたが、教育の格差は広がっている、という現状を多くの人は追認する形で、仕方ないと思っているのではないでしょうか。

lazyplanet.hateblo.jp

 

海外での先行事例

日本で検討されている所得連動型学生ローン制度は、オーストラリアの制度をモデルにしています。オーストラリアでは、実際に教育格差は是正されたのでしょうか。

オーストラリアでは、そもそも長い間、大学は実質的に無償でした。しかし、高校卒業者の増加に伴い、大学の進学需要が超過状態となっており、大学の維持・運営が困難な状況でした。

そのため、学生の私費負担を増加させる策としてHECSといわれる学生ローン制度を導入しています。日本とこのように状況が少し異なるため、大学無償化策というよりは学費の私費化策といえます

ただ無償→有償という流れにもかかわらず、不利な階層出身者の進学機会に対して,HECS は正の効果も負の効果も与えていないのです。負の効果を与えていない、という点では、評価できるのかもしれませんが、ただ無償であること以上の効果は期待できません。(※「諸外国における奨学制度に関する調査研究及び奨学金事業の社会的効果に関する調査研究」報告書:文部科学省

 

スウェーデンではどうでしょうか。

スウェーデン奨学金は、返さなくて良い給付奨学金と、返済が必要なローン奨学金とでできています。2006年の標準的な学生の需給可能額は4週あたり9.6万円、政府により発表されている最低生活水準よりは低いものの、かなり恵まれた環境にあります。また、9.6万円のうち、給付型奨学金の割合は約30%です。残りの7割を大学卒業後に返済していくことになります。*3

しかし、これだけ給付割合も高く恵まれた状況でありながら、低所得者層の入学促進効果は限定的でした。

 

「なぜ高校卒業後、勉強を続けなかったのか?」と非進学者に質問調査をしたところ、「奨学金」に関する理由はほとんど見当たらなかったものの、「何が勉強したいかわからない」「勉強するより働きたかった」「他のことがしたい」という理由が多数を占めていました。

ここに、この問題の根深さがあるように思います。奨学金で自由に大学に行けるにもかかわらず、その教育の重要性(教育による便益)を認識していない、ということです。

 

 

 

 

高等教育で何を学ぶのか?

高等教育を受けることで、得られる収益としては私的、公的、社会的なものそれぞれあり、一般的には大学を卒業したほうが、生涯賃金は高卒に比べて高くなり、私的にも便益を得られ、稼ぐことで多くの税金を払うので公的にも便益を得られ、治安の改善や福祉負担の軽減といった社会的な便益も得られます。

そのため、大学進学における私費と公費の割合は、それぞれの立場で得られる便益に応じて計算されるべきだ、というのが教育経済学者の一般的な考えです。

 

しかし、その辺りの議論を一旦脇に置いておいて、「大学で何を学べばいいかわからない」という人に、「大学進学による所得上昇効果が高等教育にかかる費用を上回るから借金してでも行った方がいいよ」ということを、どう説得すればいいでしょうか。

 

以前話題になった、『「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由』の記事が頭をよぎります。

lazyplanet.hateblo.jp

底辺校の田舎者に、高等教育がとてもお得であり、かつ可能性を広げるものである、ということをどう伝えていくかが、教育格差を論じるうえで重要ではなかろうか、という筆者の立場は、このような理路のなかでは納得できるものがあります。

 

そのうえで、まあ大学は無償(少なくとも後払い)のほうが、ありがたいのは事実です。キャッシュフロー的にとても助かるからです。

自宅通学と下宿とでかかる費用が全く違う以上、なるべく近場に大学がある、ということも非常に重要な要素です。大学を潰すなら、自宅生と下宿生の生活費の差を解消してからにしていただきたい。

 

無償化に関する議論は、他にも適用条件をめぐっていろいろと炎上していて、まだまだまとまりそうにありませんが、取り急ぎ教育格差の解消については、大学無償化だけでなく、他の施策もあわせて考える必要がありそうです。

 

 

*1:学生生活に関する各種調査 - JASSO

*2:子供の学習費調査:文部科学省

*3:大岡頼光『教育を家族だけに任せない』p.101

大学の学費は親が払わなければならないのか?

大学無償化に関する、専門家会議が進んでいます。

今年中には骨子がまとまる予定ですが、子育て世代にとっては家の次に高い買い物といわれる大学進学費のゆくえは気になるところです。

 

大学無償化は「出世払い方式」

まず、初めに断っておきたいのが、現行の自民党案の「大学無償化」は、「出世払い方式」であり、厳密にいえば無償ではありません

年収が1100万円未満の世帯の子どもを対象に、授業料として、国公立大学の場合は年間54万円を、私立大学の場合は70万円、もしくは88万円をいずれも無利子で貸与し、卒業後、毎月、課税所得の9%を返還してもらうなどとしています。

 在学中は費用は発生しませんが、所得の9%を返済に充てる、という案のようです。

また、住民税非課税世帯に対しては「出世払い方式」ではなく、減免措置(国立大は全額免除・私大は平均授業料を勘案し、一定額)が検討されています。

f:id:lazy-planet:20180517124214p:plain

高等教育局学生・留学生課長説明資料より)

 

仮に、上記の設定がそのまま適用されるとすれば、私立大学を4年で卒業した場合、最大で88万円×4=3,520,000円を返していくことになります。

すごくざっくりと、初任給160,000円、ベースアップ5,000円、5年ごとに職能給20,000円と計算してみても返済までに15年かかります。

 

  月給 月額返済済額 年間返済額 累計返済額
1年目 160,000 14,400 172,800 172,800
2年目 165,000 14,850 178,200 351,000
3年目 170,000 15,300 183,600 534,600
4年目 175,000 15,750 189,000 723,600
5年目 200,000 18,000 216,000 939,600
6年目 205,000 18,450 221,400 1,161,000
7年目 210,000 18,900 226,800 1,387,800
8年目 215,000 19,350 232,200 1,620,000
9年目 220,000 19,800 237,600 1,857,600
10年目 245,000 22,050 264,600 2,122,200
11年目 250,000 22,500 270,000 2,392,200
12年目 255,000 22,950 275,400 2,667,600
13年目 260,000 23,400 280,800 2,948,400
14年目 265,000 23,850 286,200 3,234,600
15年目 290,000 26,100 313,200 3,547,800

途中、出産育児などで収入が減る、転職のために一時的に無給になるなどのことがあれば、返済期間はさらに長くなります。

これに加えて貸与型の奨学金などを受ければ、さらに返済額は多くなります。

それでいて、子どもが生まれれば今度は子どもの教育費が・・・、となりなかなか世知辛いですね。

 

この「出世払い方式」、本当に良いものなんでしょうか。今までの無利子奨学金と何が違うの?という疑問が当然沸いてきます。

大学の費用は誰が払うのか?

私自身も、いまだに奨学金を返しています。無利子奨学金を月額51,000円で借りていたので、4年間で2,448,000円です。未だにじっくり返済中です。我が家の場合、妻が有利子の奨学金を借りていたので、そちらを優先的に返済しています。

平成29年度以前入学者の貸与月額 - JASSO

無利子の奨学金を借りるには、一定以上の成績でないと無理、という要件がありますが、わりと大学生活適当に過ごしていてもまぁ大丈夫でした。

 

大学にいた頃は、当たり前のように学費も生活費も親に頼りきりだったのですが、そもそも大学の費用は親が払わなければいけないんでしょうか。 

 

もし、大学の学費がタダであれば、親は子の学費を負担することなく、生活の扶養だけで十分になります。また、18歳という年齢に限らず、学びなおしやキャリアアップを目的とした就学も可能になり、学ぶ機会が広がり、学生の多様化は学生どうしの学ぶ意欲も高めます。 

 

何より、大学までの期間の教育費用を親が負担することは、親への依存度を高めます。それは自分自身が未熟であるときはプラスの効果がありますが、親が衰弱し始めたとき、今度は親が子どもに依存する効果も高めてしまいます。大学まで行かせてやったんだから、親の面倒ぐらい見ろよ、というやつです。

つまり、親子間での扶助が社会的な前提となっているため、親の介護の責任を子どもが重く負うことになってしまうのではないか、という仮説が成り立ちます。これは、介護の社会化を妨げるもので、あまり好ましくありませんし、介護段階においても格差を生じさせるものです。また、老後資金が子の大学進学費用で目減りすることもまた事実かと思います。

 

このあたりの議論は、大岡頼光『教育を家族だけに任せない』がうまくまとめています。

この本では、主にスウェーデンの事例を取り上げ、大学生をそもそも親から独立した「成人」とみなした奨学金制度の確立の事例を紹介しています。

スウェーデンでは、大学の学費は無料ですが、加えて返還義務を伴う奨学金が充実しており、それらは本人の経済状況のみから判断されます。

また奨学金の金額も多く、生活費として親から独立して生計を立てることが十分可能となっています。

 

f:id:lazy-planet:20210116163925j:plain

学生個人と学費を結びつける仕組み

日本において、現在検討されている学生ローン制度は、オーストラリアのHECSと呼ばれる制度をモデルにしています。

HECS を利用できる学生は、まず自分自身の納税者番号(マイナンバー)を税務署に申告します。在学中は、その学生の教育費用は政府により肩代わりされます。

学生は卒業後、一定程度以上の年間所得を得るようになった時に初めて年間所得のうちの数%を「学生貢献分」として政府に返済する義務を負います。

この時、HECS 利用申請時に税務署に申告した納税者番号に基づき、年収のうちから返済相当額が差し引かれます。

「諸外国における奨学制度に関する調査研究及び奨学金事業の社会的効果に関する調査研究」報告書:文部科学省

 

HECS制度においては、大学入学時の機会費用は発生しません。

現行の奨学金制度は入学金・授業料などを支払った後に支給されるものですが、その場合一時的にも親が肩代わりする必要が出てきます。

返済が就職後から始まる点は、あまり現行のものと変わりませんが、本人所得に連動させることによって、本人にその義務を負わせることになります。(現行の奨学金は、実質的に親が審査を受け、お金を借りて返す制度となっています)

学生個人と学費を直接結び付ける、という点において、この制度であれば実質的に親が払うのではなく本人が大学の学費を払う、ということになります。

 

 

 親の負担はなくなるのか?

とすれば、所得連動型学生ローン制度(大学無償化)が施行されれば親の負担は無くなるのでしょうか?

そんなに、甘くねえよ、と現実を突きつけるのが次の表です。

下宿・アパート暮らしをする大学生の生活費・支出を表したものです。

区分 下宿、アパート、その他
国 立 私 立 平 均
支出 授業料 503,100 1,115,900 883,500
その他の学校納付金 8,000 182,500 116,700
修学費 49,800 47,800 48,000
課外活動費 52,300 35,100 39,700
通学費 10,000 21,900 18,000
小計(学費) 623,200 1,403,200 1,105,900
食費 295,400 269,000 276,000
住居・光熱費 492,900 455,500 466,000
保健衛生費 34,100 38,100 36,800
娯楽・し好費 141,100 156,800 151,100
その他の日常費 156,800 169,900 165,200

小計(生活費)

1,120,300 1,089,300 1,095,100
1,743,500 2,492,500 2,201,000

(※学生生活に関する各種調査 - JASSOより)

生活費だけで約100万円かかりますね。。

今後、18歳成人が適用されるかと思いますが、成人の大学生に関しては子の扶養義務があるという判例もあるようで、やはり生活援助のための仕送りは必須なのかと思われます。

ただ、よく言われるような、子ども一人につき2000万円かかる、みたいなのは多少軽減されるのではないか、と思われます。

f:id:lazy-planet:20180517184636p:plain

 それでは、こうしたツケ払い制度は、教育格差を是正し、貧しい世帯の大学進学を促す効果があるのでしょうか。

 

そろそろ、長くなってきたので、ここで一旦区切りますが、オーストラリアの調査によるとその効果はあまりみられないとのことでした。

その理由は、次回にします。

パートの仕事が1年続きました。

いまの職場でパートで働き始めてちょうど1年経ちました。

「転機」というほど、突然のものではなく、かなり段階を踏んで慎重に始めたものなので、ここまで無理なく続けられているのだと思います。

lazyplanet.hateblo.jp

上の記事にも書きましたが、いまの職場の素敵なところは、

・家から自転車10分(満員電車は吐くので無理)

・スーツ無し(ネクタイも吐く)

・1日4時間、週5日(労働保険以上扶養範囲内)

・主婦多し。(理解者が多い)

・事務職(体力的にこれしか無理)

というところです。

特に、メンバーの関係性が非常にいいのが助かっています。基本、シュフどうしの会話なので、家事育児に有益な情報もたくさん得られます。

 

社内のシステム変更などが立て続けに起こったこともあり、PCが使える、というだけでかなり重宝がられましたし、新システムに合わせていろんなレポートの様式を整えたりと面白いこともやらせてもらえて、スキルも上がりました。

 

いわゆる「小売」業界にいるので、主夫としての生活と地続きなのも、また仕事が面白い要因なのかもしれません。

消費者むけの「ザ・商売」という業界は初めてでしたが、消費者としての自分と、商売人としての自分の複眼的な視点で世の中の商品を見ることができるのも良いものです。

家事に応用できそうな部分は、またここでも紹介していきたいと思います。

 

最近は、少しずつ起きていられる時間も増えたので(前はずっと疲れて寝てました)、ブログもちょくちょくと更新していきます。はてなブログPROにしたおかげで、無事凍結状態だったアドセンスの報酬も回収できそうです。

 

パートの仕事を固定収入として維持しつつ、プラスαの変動収入をもう少し増やせられたらなあ、とは思うのですが、なかなか簡単にはいかないですね。

副収入的なことも、またそのうち書きたいと思います。

 

そんな感じです。今は。

 

f:id:lazy-planet:20180516225525j:plain

 

(ずっと以前のものはこちら。) 

lazyplanet.hateblo.jp

 

子連れ現代アート<KYOTO GRAPHIE>

会期末ギリギリでしたが、娘と一緒に、京都で行われている国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」に行ってきました。

www.kyotographie.jp

朝早くから、「京都にアートを見に行くぞ」と声を掛けて、さすがに微妙な反応をする娘を説得するのに大変でしたが、「好きなもの食べていいぞ」ということで取引成立。

ちなみに「花まるうどん」で大変満足していただけました。

 

京都新聞ビル 印刷工場跡

まず向かったのが、こちら。

京都新聞ビルの地下、印刷工場跡を利用したギャラリーです。

廃工場の退廃的な雰囲気とアンマッチした、消費社会の物質主義的な贅沢な暮らしを写した写真が中央に配置されています。

印刷工場跡の雰囲気が素晴らしいです。黒ずんだインクの跡、むき出しの配線やダクト、地下空間とは思えない天井の高さなど、圧倒されます。

娘にとっても、良い社会見学になりました。

 

そして、こちらは京都新聞社のロビー。使い込まれたイームズのシェルチェアが、赤いフロアに映えています。

 

ここで、娘は子ども用のスタンプラリー台紙をもらいました。無料のわりに、しっかりした作りで、中には解説やクイズも書かれています。ここから、俄然娘のテンションが上がります。育児世代にとっては、大変ありがたい心配りです。

 

三三九 旧氷工場・旧貯氷庫

次のメインは丹波口京都市中央市場にある「三三九」。

もともと、中央卸市場に供給するための大量の氷を製氷・貯蔵するための工場・倉庫として使われていた場所が、ギャラリーとなっています(※三三九は現在の所有会社の名称)。

 

会場は、卸市場を抜けた先に、あります。 

こちらでは3作品、楽しむことができます。

洪水災害に見舞われた後の世界各地の街の様子を、並行した5枚のモニターで映し出す、ポートレート映像作品。

異端な、アウトサイダー達をモノクロ写真に収めた作品。

日本の「働く人」を原寸大で図式化したように撮影した常設作品。

 

そのどれもが、卸市場と廃墟化した工場の空間とうまく融合させて展示されています。

正直、写真好きにはたまらない空間で、素晴らしい写真が展示されています。こうした癖の強い場所では、空間の持つ力に圧倒されてしまうのですが、作品の放つ力も負けていません。

ダンジョンのような場所で、娘は少し怖がっていましたが、めったに来られる場所でもないので、その雰囲気は楽しんでいたようです。

 

他の会場もスタンプラリーの勢いで、駆け回りましたが、この二つの場所がとにかく圧巻でした。

 

現代アートの分からなさ

現代アート、というかそもそも「アート」には分からなさが付きまといます。

ただ、子どもにとっては、アートだけでなく新しく訪れる場所、すべてがはじめてでわからない場所です。

アートの前では、大人も子どもも等しく同じになれるような気がします。もちろん、置かれた文脈や場所・モノとの関係性から、作品を読み取る力は大人の方があるかもしれませんが、分からないものを体験する、という点においては同じです。

日常の中には予定調和なストーリーや「わかりやすい」かわいさ、美しさ、カッコよさが溢れていますが、分からないものと向き合う機会は、積極的に出会わなければ得ることができません。

 

幸い、こうしたアートは真っ白な静かな美術館の空間ではなく、体験型のインスタレーションとして、開かれた場所にあることが多いので、比較的子連れに向いています。

以前も、瀬戸内国際芸術祭に子連れで行きましたが、楽しかったです。 

f:id:lazy-planet:20160802112011j:plain

と、アートに限らず、音楽その他のイベント含め、こんな感じでいろいろ理屈をつけては、父ちゃんの道楽に子どもを連れまわしています。 子どもにとってもプラスの影響になっていればそりゃいいけど、全くなってなくてもいいかな、と思っています。

 

育児・家事が中心の生活だけど、無理してでも、やっぱり非日常を楽しみたいのです。

 

専業主婦前提社会に苦しんでいる私たちは

私たちは「専業主婦前提社会」に苦しんでいる

今週のお題「おかあさん」

toyokeizai.net

さて、『育休世代のジレンマ』でよく知られる中野円佳さんの記事です。

 

いつのまにか、シンガポールに出られ、現在は海外×育児×キャリアについてのオンラインサロンも開かれているようです。

海外に出てみると、日本の子育ての相変わらずな状況が辟易して見えてくる、というところから記事は始まります。

で、当然の帰結として、「日本の求められてる家事クオリティ、高すぎじゃね?!」というところに行き着いた、というのがこの記事のストーリーです。

 

そうそう、その通り、と首がもげるほど頷きたいことばかりで、全て正しいのですが、やっぱり3000字程度の記事では物足りないのです。

 

専業主婦前提社会に苦しんでいる、だけではないからです。

 

私たちは「仕事至上主義前提社会」に苦しんでいる

求められている仕事量(時間)多すぎじゃね?!」というのがこちらの前提です。

質よりも量が問われているのがこの前提の根深いところです。 

 

フルタイム勤務であれば男女問わず、多くのサラリーマンは当たり前のように9時の始業に間に合うように出勤し、18時定時として、そのまま帰るにしても家に帰るころには暗くなりますし、多くの人はもっと残業をしているでしょう。

 

働きつつ育児をする男性の主な悩みの一つが、イクメンは出世できない」です。

(主に男性の)サラリーマンが朝から晩までフルコミットで仕事に集中している一方で、子育てしながら仕事をしている女性・そして一部の男性は、会社においては同等の条件で成果主義に基づき、その貢献度を評価されることになります。

どちらが条件的に有利かは一目瞭然かと思います。

実際に、夫婦共に正社員で働こうとすれば、妻が専業主婦やパート勤務の家庭と異なり、夫が仕事の時間を減らして、育児を分担しなければなりません

そうは言っても、現状では、男性の働き方は、週5日40時間は「最低限」で、それ以上が「普通」に求められており、定時にすら帰れない父親がほとんどです。

男性の育児参加は、まさに「言うは易く行うは難し」で、共働き世帯の母親には過剰な負担がのしかかっています。

toyokeizai.net

こちらは、男性学の研究者である田中先生の記事の引用です。

現状で普通の能力しかない一般的な男性が仕事も育児も効率的にこなせる理想的な「イクメン」になることの難しさを滔々と語っています。

当たり前ですが、子どもが生まれたら急にすごく仕事ができるようになって、短時間で成果が上がるようになる、なんて都合のいい話はありません。

働く時間が減れば、当然、その分だけ成果は落ちます。

育児で責任を果たす以上、これまで男性に求められてきた業務量をこなし、同じだけの成果を上げるのは無理です。

フルタイムの共働きが増えつつある現在、フツメンにできる仕事と家庭の両立とは何かを考えることが求められています。

世知辛いですが、これもまた育休世代のジレンマの一つです。

 

さて、女性は専業主婦前提社会に苦しみ、男性は仕事至上主義前提社会に苦しんでいます

じゃあ専業主婦や仕事一筋のサラリーマンは苦しんでないかと言われれば、決してそんなことないですよね。

専業主婦の人は本当は働きたいのにその機会を奪われ、それこそハイクオリティな家事・育児を求められてきましたし、仕事一筋の環境ではストレスも多く、長時間労働による過労死はずっと以前から問題視されています。

 

「メイド」も誰かの犠牲を前提にしている

それでいて、一般的な子育て世代である30代の平均年収は、約450万円です。

平均年収ランキング2017(年齢別の平均年収) |転職ならDODA(デューダ)

 

冒頭の記事に戻りますが、それで、シンガポールのメイドのはなしをされても、はぁ・・なわけです。メイドを雇うだけの年収を確保できる層はわずかで、あるいは格安で雇うには、そのメイドが低賃金でなければなりません。

保育士の賃金が安い安い、とさんざん言われていますが、育児のアウトソース先としては本当に格安で、日本人の平均年収でもなんとかなる金額です。しかも年収に応じてさらに安くなります。

メイドを一家庭が雇うということは、メイドの雇用形態としてとても不安定なものです。雇用期間が短く、契約も個人間では曖昧になり、仲介が入れば割高になります。かつ、日々の業務はルーティンワークであり、給料の上げ幅も多くは見込めません。

質の高い「丁寧な家事」を求めないのであれば、長期で雇うよりも、定期的に安いメイドに切り替えたほうがお得です。

メイド自体が、自分より低収入な誰か、あるいはパートで働く誰かを前提としたものであり、その前提を超えたサービスが実現されるにはまだ時間がかかりそうです。

 

思うに、事態はもっとずっと深刻なのではないか?ということです。

 

皆でもっと楽になろう

皆でもっと楽になろう、は正しいのです。 

 

手作りのお弁当じゃなくても、総菜詰めるだけでいいし、冷凍食品もおいしいものがたくさんあります。家が多少散らかっててもいい。モノがあふれてて、子どものおもちゃはガラクタみたいな菓子玩具でもいい。なるべく家事は自動化すべく、ルンバ、洗濯乾燥機、食洗機、新たな三種の神器を使えばいい。

 

でも、それだけでは圧倒的になにか足りないのです。"take it easy."は大好きな言葉ですが、それだけで解放されるほど単純なものに私たちは苦しんでいるんでしょうか。

 

女性と家庭の問題ではなく、男性と働き方の問題でもある、というのは先に見てきたとおりです。そして、他の誰かに犠牲を負わせるのではなく、「皆」で楽にならなければなりません。

では、どうすればいいのでしょうか。

 

ステレオタイプへの服従か、ロールモデルの欠如か

「〇〇前提社会」という〇〇に苦しめられている社会で、苦しまないように生きるには、徹底的に〇〇の側に立つか、苦しまないための新しい生き方を探すか、のどちらかです。

前者は、「ステレオタイプへの服従」という困難があり、後者は「ロールモデルの欠如」という困難があります。前者は「保守」と呼ばれ、後者は「リベラル」と呼ばれるものです。

「どんな生き方をしてもいい。どちらか好きな方を選べ」と突き付けられたとき、実際には多くの人は戸惑ったまま選択できず、その両方に苦しめられるのではないでしょうか?

時折、そうした苦しみが炎上という形で、姿を現します。「牛乳石鹸」然り、「あたしおかあさんだから」然りです。

www.j-cast.com

www.buzzfeed.com

 ずる賢く生きる

正直なところ、個人レベルでどうこうできるような話ではないのかな、とは思いますが、制度的なことはそれこそ、中野さんの今後の分析に期待したいところです。

それでも主夫の戯言として、個人レベルの解決策を提示するならば「チート技」を使う、つまり「ずる賢く生きる」ではないでしょうか。

 

たとえば、専業主夫って生き方は、なかなか便利です。

専業主婦前提社会に適応しつつ、新しい生き方として男性稼ぎ手モデルからも脱却することができます。従来からの規範からは解放されつつ、それなりの暮らしをそれなりの形で送ることができる、一つのチート技だと思います。

 

いまの自分の生き方を完全に肯定するわけでもなく、なるべくして行き着いたところですが、誰もが流れるように生きていて、今にたどり着いています。中野さんのように、海外に住む、というのもまた一つの技ですが、それも自身の意思というよりも流れるように行き着いたものだと思います。

一方で、彼女なりのやり方で、オンラインサロンで海外×女性×働き方という単なる駐在妻のコミュニティに囚われない要素を+したコミュニティを形成しています。これもまた、巧みな手法です。

 

海外に住む、集まって住む、パラレルキャリアをつくる、拠点を複数つくる、他にもずる賢く生き抜く技は、私の知らないところにたくさん転がっているのだと思います。

私たちは、もっとずる賢く、生きていきましょう。

 

jmatsuzaki.com

 

f:id:lazy-planet:20210210115701j:plain



 

テレワークは長時間労働を招くのか

最近、在宅でテレワークをしたくて仕方がないパート社員の私です。

今やってる仕事の8割が、データさえあれば家でもできる仕事だからです。

 

しかし一時期に比べ、『テレワーク』については話題が少なくなりました。

その働き方が本当に生産性を上げるのか、 あるいは業務上のメリットが大きいのか、など様々な観点から疑問が投げかけられ、一部の導入企業は廃止、あるいは見直しがなされているからです。

 

フランスでは週2日まで、としている企業が多いようです。

gendai.ismedia.jp

 週5日の全日をテレワーク化した場合には社員の孤立という問題が発生し、テレワークによって生じるはずの生産性向上が逆に失われる。テレワークによる生産性向上のピークは、テレワークが週1~2日である場合に確認される。

というのが理由のようです。

 

実際に、テレワークは非効率でかえって生産性を下げてしまうのでしょうか?

(※こないだそれっぽい写真を撮る機会がありましたので。snapmartさん、ありがとうございますhttps://info.snapmart.jp/seller_event02/

テレワークは長時間労働を招くのか?

リクルート研究所が2017年11月に『テレワークは長時間労働を招くのか?』というレポートを発表しています。(https://www.works-i.com/pdf/171120_wr12_06.pdf

 

こちらの内容を端的にまとめると、「そもそも、日本企業が全体的に長時間労働体質なので、テレワークしたほうが長時間労働からは解放されやすい」です。

つまり、長時間体質が解消された場合、テレワークとの差は無くなるかテレワークの方が非効率、という結果になる可能性が高い、というところです。

 

日本以外のほとんどの国では、テレワーク(在宅労働者)のほうが労働時間は長く、ただ通勤時間の削減等によりワークライフバランスはとりやすくなった、という結果が出ています。ワークライフバランスの観点からは好ましいが、生産性の観点で言えば好ましくない、という悩ましい結果です。

また、海外の場合、女性の家事労働時間が増えてしまうことを問題視しています。

一方、このリクルートワークスの調査結果では、日本においては、特に男性の場合に家事労働時間が有意に増加しており、これは男性の家事参加の観点で好ましいことと受け取っています。

f:id:lazy-planet:20180510165353p:plain

その男性の配偶者の家事時間がちゃんと減って、家計的に、あるいは幸福度としてプラスになってればいいのですが。。

 

日本と海外で大きく差が出るのは、労働慣行の違いも大きいものと思われます。チーム重視、年功序列、集団的規律を重んじる日本企業的な職場では、先に帰りづらかったりしますよね。テレワークであれば、そうした集団心理から解放される、というのも長時間労働にならない一つの要因かもしれません。

 

また、こちらは、あくまで制度的なテレワーク実施者を対象としているため、日本でテレワークを制度的にOKとしている(比較的ホワイトな)企業というバイアスが掛かっています。

テレワークを制度として導入する場合には,長時間労働に陥りがちなテレワークをモニタリングして抑止するような労務管理が同時に成り立っている可能性を示唆している。

https://www.works-i.com/pdf/171120_wr12_06.pdf

テレワークを導入している企業では的確なモニタリングと制度運用によって、適切な労務管理ができている、ということですね。そうではなく、持ち帰り残業・サビ残的なテレワークだと、生産性向上といった期待はできないでしょう。

 

テレワークのガイドライン

テレワークを導入・実施する場合の労使間の契約や運用ルールの決め方については、厚生労働省が2018年4月にガイドラインを策定しています。

www.mhlw.go.jp

労働基準法や衛生法などの適用、労災についてなど、かなり細かい運用面でのルールが書かれているので、とても参考になると思います。

その中でも、長時間労働への対策の項目などは、特に注目すべきところです。

また、テレワークを行う場合、モバイル端末あるいはパソコンなどの通信機器がほぼ必須になるかと思いますが、こうした通信上のセキュリティのガイドラインについては、下記が参考になります。

www.soumu.go.jp

www.csaj.jp

セキュリティあんまり詳しくないので、ほとんど読んでませんが、導入事例などもいろいろ書いてあります。

テレワークと通勤

ちなみに、上記のCSAJの資料にあったのですが、都道府県別の通勤時間ワースト順に並べた表が下記のものです。

1 神奈川県 1時間45分
2 千葉県 1時間42分
3 埼玉県 1時間36分
4 東京都 1時間34分
5 奈良県 1時間33分
6 大阪府 1時間25分
7 兵庫県 1時間21分
8 京都府 1時間20分
9 茨城県 1時間19分
9 愛知県 1時間19分

当たり前ですが、テレワークによって在宅就業が可能であれば、これらの時間は無くなります。

それだけでも、かなりメリットありそうです。

実際に、東京圏の全ての労働者の通勤時間を勤務時間に充てれば8.6兆円の経済効果がある、という試算もあります。(http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/pdf/macro/2018/kuma180426ET.pdf

長時間通勤とテレワークについて焦点を当てたレポートもあります。これによれば、通勤手当という賃金プレミアムがありますが、それ以上に通勤時間を苦痛に思う人が特に女性に多い、ようです。満員電車は誰にとっても苦痛ですが、体力の少ない女性、痴漢の被害に逢いやすい女性、がそれを苦痛に思うのは尤もな話です。

 

運用までのハードルの高さ

総じて、いろいろ見てみると、テレワークを導入・実施するまでに、そもそも越えなければならない高い障壁がたくさんあります。

そもそもオフィスワークにおける労基法の順守、適切な労働時間管理、から始まって、リモートに限らずセキュリティ面の整備、タイムマネジメントツールの導入、そしてテレワークを運用するにあたってのルールの整備、と。

単なる制度導入というだけの問題解決ではなく、会社全体を巻き込んだ働き方改革プロジェクトとなるため、その導入が難しく時間がかかるものになってしまいます。

 

そんなことごちゃごちゃ言わずとりあえずやろーよ、的なノリではできないのがネックですね。失敗して廃止にしたところも、おそらく上記のどれかが欠落していたのだと思います。

 

そんなわけで、いろいろ調べてみたものの、パートでもそんな働き方ができるようになるのは、まだまだ先だろうなーという結論です。

まあ、今の職場は自転車で10分のところなのですが。(←雨が降ったら休みたい。)

f:id:lazy-planet:20210128104348j:plain

 

ニンテンドーラボは小学1年生でも作れる

皆さん、遊んでますか?Ninntendo Labo。

さて、我が家でもさっそく発売日にヤマトのお兄さんが届けてくれたので、漏れなく楽しんでやっています。

www.nintendo.co.jp 

ニンテンドースイッチのその後

ニンテンドースイッチを買ったのが、約3か月前なのですが(過去記事参照) 、『すみっコぐらし』でもやらせて平和に毎日を過ごす・・、はずが、3か月間スプラトゥーンしかやってません。なんなんでしょう、このゲームの中毒性。

lazyplanet.hateblo.jp

幼少期にゲーム無しの環境で育ち、ゲームに全く関心を示さなかった妻が、毎晩のようにスプラトゥーン2をしています。

はじめはジャイロ操作に慣れなかった娘も、バンバン敵をローラーで叩きのめしています。立派に育ちました。

小学校低学年女児向けコンテンツの空白

よく指摘されるところなのですが、小学校低学年の女児向けコンテンツは、空白地帯となっています。

幼児のみんなが大好きなプリキュアも6歳以降はその支持率は低下して、プリキュアします。

prehyou2015.hatenablog.com

一方、女児向けのコミックなどは恋愛要素が多く、それらを理解し好むようになるのは高学年以降となります。

(別稿でも紹介する予定なのですが)『女の子は本当にピンクが好きなのか?』の著者、堀越英美氏は次のように述べています。

長女に言わせると、クラスの女の子たちは『プリキュア』シリーズ、『アイカツ!』といった女児向け作品は卒業したものの、恋愛中心の少女マンガはまだ早く、小学生向けのコンテンツはたいてい男子主人公モノばかりなのでいまいち入り込めず、コンテンツ難民状態にあるらしい。小学2年生の女の子たちが語り合える作品は『妖怪ウォッチ』ぐらいなのだそうだ。

p.123 『女の子は本当にピンクが好きなのか?』(2016年)

まあ、まだプリキュアも見てるのですが、今のところ空白期間はスプラトゥーンで埋まっています。最近はイカの絵ばっかり描いてきて、学校の先生を困らせてきているようです。図工の時間が楽しみですね。

 

小学1年生でも工作できる丁寧さ

ネットでは、もっぱらtoyconガレージと呼ばれる自由工作・プログラミングが話題で、大人たちが子どもそっちのけでいろんな工作をしているようです。

game.watch.impress.co.jp

一方、小学1年生の娘にとっては、まず「一人だけでキットの工作を完成させる」ことが目標となり、また達成感につながっています。

ダンボールだけでバネや手回し車、ハンドルや鍵盤を作り、遊べる玩具のカタチにする、というだけでも、1年生にとってはかなり難易度が高く、ひとつひとつの工作にだいたい2~3時間ほどかかります。

そこで、何日かに分けて完成させることになるのですが、それでも6歳の子どもの集中力を持続させ、大きな失敗もさせることなく完成させてくれる『モノづくりの丁寧さ』が随所に感じられます。

制作過程を説明した動画が、自由な角度から観察でき、何度でも戻って工程を確認できることや、ダンボール自体の加工がかなり精密で分かりやすいこと、など直感的で分かりやすいデザインが、デジタル面でもマテリアル面でも完成されています。

 

一通り、すべてのトイコンを完成させましたが、バイクだけは、まだリアルで自転車に慣れていない娘にとっては難しいようでした。。

「分かる」「発明する」はこれから

小学1年生の娘にできるのは「作る」「遊ぶ」「飾る」までで、「分かる」「発明する」は次の段階かな、というところです。

「分かる」も、とても分かりやすい解説で説明してくれるのですが、それを「発明」まで応用させる力はかなり高度な思考力が試されます。

なるべく親がそばで一緒に見ながらやっているのですが、「分かる」の説明は飛ばしがちになります。トイコンを作る過程で、余った細かいパーツは装飾か発明かに使われるのかと思いますが、専ら装飾に使われることになりそうです。

発明は、若干親のセンスが問われるところもあると思いますが、そのうち工作事例集みたいなのも出てくる気がします。オリジナル作品を発明するのは難しくても、これからもいろいろ楽しめそうですね。

 

特製「デコるシート」プレゼント|Nintendo(※メルマガでこんなのきました)

パーツの型紙はこちら。簡単な補修はこれでもできそうです。

PARTS ダンボールパーツ一覧| Nintendo Labo | 任天堂

 

f:id:lazy-planet:20201219120206j:plain

 

田舎の高校から都会の国立大に進学する話

こちらの記事にぶら下がって、書いているブログをいくつか見て、私も少し思うところはあるな、と感じたので、思うままに記します。

gendai.ismedia.jp

 

何に絶望したのか?

この著者が絶望したのは、田舎では「想像力が奪われている」という事実でした。

「大学」というものがあるということを想像できる環境。文化、教育、教養といわれるものへのアクセスが田舎には全くなかった、という事実です。

そして、自分がここにいるのは努力ではなくただの偶然の賜物でしかない、ということもまた十分に絶望に足るものだったのだと思います。

田舎から抜け出すには大学入試がおそらく最大のチャンスだが、しかし、その可否は中学時代にすでに決まっている。

なぜなら、「都会には『大学』なる組織が存在し、自分も努力次第でそこへ入学するチャンスがある」という事実を教わることができるのは、中学で教師の言われるままに学区トップの高校に進学した者だけだからだ。

著者は悲嘆にくれたまま筆を走らせているので、表現が少し極端ですが、中学で成績上位でないと国立レベルの大学への進学が難しいというのは事実かと思います。

 

 なお、文中の「底辺」とは小中学校時代を卑下したものと読めます。

『東大に入って絶望した田舎者』阿部幸大氏のウソを元「底辺校」教員が指摘 - Togetter

あの文章、底辺と呼んでいたのは小中学校の話と読めるのだけど。

2018/04/28 06:25

 

f:id:lazy-planet:20170404130857j:plain

金華山から。これは岐阜のなかでも都会な地域です。

以下は自分語りなので、やや退屈かもしれません。 

私のはなし

私は、岐阜の世帯数2000に満たない小さな町に育ちました。

著者と同年代で岐阜のど田舎で育った私も、中学時代に将来のこと、進学のこと、そうしたものを考えるような余地、想像力は全くありませんでした。

 

私自身は、小学校の頃はクラスでビリな成績だったのですが、親に言われるままに塾に行っていたら、成績がメキメキ上がって、いつのまにかそれだけが取り柄になっていました。

私が中学に入ると同時に兄が京大に入学したため、いわゆる文化資本的なものは、ほとんど兄からの受け売りでした。そういう世界があるのだ、ということを知る唯一の窓口でした。

 

親はそれほど勉強にうるさく言いませんでしたが、塾通いのおかげで公立の進学校に進んでも成績は保てました。なんとなく兄も京大だから自分も、と考えていて、京大すげー難しい、と気づいたのは高校3年生のときで、あえなく浪人しましたが。

 

1年間学校も行かずに、受験勉強だけをする、というのは思った以上に長く、いろんなことを考えさせられるものでした。本を読む時間も十分にあり、大学入学時に必要な文化資本レベルのものは習得可能でした。

私は文系学部出身ですが、中学のころから、本を読むのは好きでした。本好きであることが周りに知れ渡ると、自然と本好きの友達(主に女の子)が集まってきて、交流できるのが嬉しくも楽しかった、というのが長く本と付き合うきっかけですが。

f:id:lazy-planet:20170404153637j:plain

春になると、実家のまえに出店がたくさんできて、騒がしいのです。

ともかく、受験時には余裕で合格できるレベルにまで学力は上がり、おかげで入学後も気後れすることなくそれなりに楽しく過ごせました。

 

簡単な私事の紹介からも、田舎から都会への「アクセス」の鍵が少し見えてくるように思います。

見えている世界の違う友人

私は日々の自分の生活を見ることに精一杯なのですが、同じ田舎の岐阜から東大・京大に進学した友人たちもまた全く違う世界を見ています。

 

同じ高校から東大に行ったH氏は、大学卒業後、世界銀行ユニセフなどで働き国際教育学の博士課程として現在もアメリカで学んでいます。

岐阜高専から京大に入ったY氏は、構造最適化の分野で京大の助教として活躍し、海外各地で講演などもしています。

同じように田舎から国立大に進学していても、見えている世界は全く違います。

 

中学・高校と過ごした環境が特別な何かを与えていたのかは私にはわかりません。でも、彼らがいま見ている世界は、はるか遠くの進んだ専門のその先の世界です。

 

あるいは、地元で大学に行かなかった友人たちも、また違う世界を見ています。

中学の同窓会で会った友達の多くは工場で働いていたり、現場監督をしたり、トラックの運ちゃんをしていました。女の子の多くは、主婦として子育てに奮闘していました。

それは私が中学のときに見ていたのと地続きの世界で、とても懐かしくどこか親しみのある世界でした。

「同窓会に出てくることのできる人」という意味では、まっとうに人生を送れている人フィルターがかけられていますが、「偶然」の恩恵に預かれなくても、教養を知らなくても、日々の生活を楽しく生きることはできます。

地元にずっと住み続ける、というのは、私の知らない世界の一つです。いろいろな面倒ごとや退屈もあるのかもしれないし、都会の生活を憧れていても叶わなかった、ということもあるかもしれません。

それでも、それで幸か不幸かが決まるものでもありません。少なくとも、私が出会った人たちは幸せそうでした。

f:id:lazy-planet:20170404102403j:plain

つくしを採って食べるのが好きでした。

「都会」は機会に恵まれている

大反響「底辺校出身の東大生」は、なぜ語られざる格差を告発したのか(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

個人的には、モノや情報の格差よりもコミュニティがないことのほうが大きかった気がする。ちょっと変わった趣味・興味が全く共有できず、大衆化されたものしか話題にならない。

2018/05/02 08:14

 こういった話題が熱くなるのは今に始まったことではありません。

2008年~2009年あたりにかけて、多くホッテントリ入りしていた『ミームの死骸を待ちながら』というブログをご存じでしょうか?

この話題が出たとき、真っ先に思い浮かんだのは、このブログの下記の記事でした。

hash.hateblo.jp

おそらく、彼も同年代だと思いますが、東京を「選択できた」人です。そして、おそらく同じようなことを感じています。彼の文章の方が、直接的な物言いで分かりやすいと思います。

東京にいると機会の数が(文字通りの意味で)桁違いに多いということ。アンテナに引っかかる情報量がそもそも違うし、アクションの選択肢が豊富にある。

ネットにより機会は平等になったと思いきや、むしろネットを活用して情報を得る習慣を持ちアンテナが高い地方の人ほど、機会の不平等を切に感じるのではないかと思う。

習い事を始めるとしたら教室、勉強会やオフ会をやるとしたら参加者が集える場所、バイトするなら勤務地と職種と時給。何か買うにしても、手にとって見ることの出来る大型店舗が重宝する。その全てにおいて、そしてその全てを同時に満たしうる環境として、東京に勝る場所はない

 

私が田舎で感じていた不満は、彼と共通しています。全く話題がかみ合わなかったのです。「本」にまつわることだけ話せる友人はいましたが、サブカルチャーな音楽や映画、文化的なものを語れる人はほとんどいませんでした。私自身の知識も相当に軽薄なものでした。

「京都は売れないアーティストに優しい街だ」と、かつて自身も売れないアーティストだったSCRAPの社長が言っていましたが、東京もある意味似たようなところがあり、マイノリティでも集まって生きることのできる場所があり、そうした場所に行けば話の通じる人は必ずいる、あらゆるコミュニティにあふれた街です。

 

東京で就職したときは、とにかく楽しくていろんなコミュニティに顔を出していました。おかげでできた友達もたくさんいて、本当に仕事と遊びをするにはいい街だと思いました。

 

再び地方を意識したのは、子どもが生まれてからです。夜の外出も休日の外出もすることができず、物は高く、人も多く、子どもは保育園に入れない。いつのまにか東京にいるメリットを十二分に享受できなくなりました。

f:id:lazy-planet:20170326102459j:plain

なんとなくオシャレっぽい写真。東京。

 

「教育」が重要と感じられるかどうか

結局のところ、私は大阪にきて、主夫をしています。

 

浪人していたとき、もう一つ大きな「偶然」がありました。

とにかく親に申し訳ない気持ちでいっぱいで、一年間は積極的に家事を「手伝う」ようにしました。手伝うというよりひたすら「教わる」というのが正しかったのですが。京都に出て一人暮らしをしても困らないように、という程度の打算的な考えもありました。

そのときのことを今は、本当に感謝しています。私が主夫として全く家事を苦にならないのはそのおかげだからです。

 

もし、主夫をせず、ひたすら仕事だけをしていたら、私はそのとき親に教わった「家事」を重要なものと感じられなかったと思います。主夫でなくとも、共働きが一般的になり、家事能力の有無が家庭生活の運用上、これほど重要なものである、ということは、とても当時は想定できるものではありませんでした。

 

同じように、都会の大学に出て、多様な機会に恵まれた人たちのコミュニティに加わり、それらを享受する側にならなければ、それまでの「教育」を重要と感じないのではないかと思われます。

 

問題は、「教育」が重要なものであると田舎において感じさせること、です。

 

なにが、平凡な田舎育ちの人を教育に向かわせる「ブースト」となるかは、私の例も、現代ビジネスの例もそれぞれだと思いますし、現状ではそれは偶然でしか得られないものなのかもしれません。

ただ「ブースト」となるような、仕掛けを地方にもたくさん作ることはできるのではないでしょうか。都会の生活を知る人が地方に入ることもまた、その一つでしょうし、夏休みのあいだ中、東京で暮らしてみる、というのも面白いと思います。

あるいは、そうしたものはもう既にあふれているけれど、それに届かない人にどうアプローチするか、というところまで深く掘り下げる必要もあろうかと思います。

 

この連載企画が(続くのか知りませんが、)そうした動きやイベントを発生させる方向に向かえば、それなりに意味のあるものになるのでは、というところで、また注視していきたいです。

gendai.ismedia.jp

家庭科で習う技術と道徳のはなし

母親の手作り神話

先日、こんな話題がありました。

趣旨としては、家庭科の先生が「ミシンではなく何でも手縫いを」という方針を掲げていて、その理由が「ミシンを使ったら母親の愛情がない」というものだった、というものです。そんな家庭科なら教えないでほしい、とのことです。

togetter.com

私にとっては、ミシンを使って手作りすることすら「母親の愛」思想を感じてしまいますが、ミシンがだめなら、洗濯は洗濯板でしょうか。

発言小町にも、よくありそうなネタですね。

幼稚園グッズ手作りしないと言ったら。 : 妊娠・出産・育児 : 発言小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

 

この話題で気になったのは、「母親の手作り神話」「ミシンは必要なのか?」というところです。

母親の手作り神話は、いろんなところで批判されているところなので、とりあえず置いておきます。

 問題は「ミシン」と「家庭科」です。

 

私も家庭科を習ってきたので、手縫いもミシンもできますが、最近の家庭でミシンがあるというのはいまだに一般的なんでしょうか。そして、「家庭科」では何を教えるべきなのでしょうか。

f:id:lazy-planet:20161005160759j:plain

 

ミシンのある家庭の割合

幼稚園児をもつ母親の手芸・裁縫活動に対する意識と実態(2015年/日本家政学会誌)というのがありましたので、こちらをまず見てみます。

「幼稚園児の母」対象というやや偏ったサンプルです。8割が専業主婦、対象者数は247人、対象地域は広島です。

f:id:lazy-planet:20180425153517p:plain

ミシンを持っている、と回答した方は76%。かなり多いですね。続く回答でも基礎的なミシン縫いは9割以上ができると答えていて、主に家庭科でその技術を習得した、と回答しています。

 

一般社団法人 日本縫製機械工業会(統計資料)によれば、家庭用ミシンの生産台数減少傾向にあります。

f:id:lazy-planet:20180425160553p:plain

 一応、元データも貼っておきます。(生産+輸入-輸出で国内需要を出しています)

  国内生産 輸出 輸入 国内需要
2005年 234,947 250,590 955,821 940,178
2006年 156,631 236,059 846,165 766,737
2007年 141,190 240,400 776,368 677,158
2008年 122,120 259,891 811,148 673,377
2009年 60,067 248,110 829,936 641,893
2010年 63,393 293,302 836,858 606,949
2011年 55,813 291,511 823,548 587,850
2012年 55,387 229,816 869,862 695,433
2013年 56,411 262,651 954,308 748,068
2014年 60,422 270,322 934,474 724,574
2015年 57,421 260,127 749,124 546,418
2016年 61,680 278,626 852,334 635,388

低調ながらも頑張っているのは、やはり入園グッズ需要があるからでしょうか。

ハンドメイド市場がminnneやCreemaなどのフリマアプリの影響で伸びていることも要因の一つかもしれません。

ミシンのある家庭は一定以上あると考えられます。

ただミシンのあるなしにかかわらず、家でも活用したいから学校で教えてほしいという需要や、家庭に無いから学校で教えてほしい、そういったニーズはありそうです。

 

少し、話は脱線しますが、ミシンは入園・入学時に最も使われることが多いと思いますが、当然「使わない」という選択もできるわけです。

 

ミシンを迂回する方法

ミシンを使う機会は生活実感ベースでも少なくなっています。既製服の低価格化で、ほつれや破れは繕わずとも、新しく買い直すことができるし、裾上げもお店でしてくれます。

雑巾は、古いタオルをミシン掛けしなくても、100円ショップで買うことができます。

既製品の入園グッズは普通にショッピングモールで売られていますし、手芸屋さんでは布だけでなく、完成品が売られていることもあります。

いかにも既製品っぽいものは嫌という人は、minnneやCreema、Base、STORESjp、メルカリなどを探せば、ハンドメイドのものが簡単に見つかります。

 

ミシンを持たない、という選択はそれほど頭を悩ませなくても、十分に可能です。

もちろん、あれば創作の幅が広がり、作品の自由度も高まるので、あるに越したことは無いのですが。

家に「はんだごて」やノコギリや電動ドライバーがあると、自分で修理修繕できる、みたいな話と一緒ですね。

 

f:id:lazy-planet:20160823155612j:plain

「家庭科教えないでほしい」の話

小学校の学習指導要領を見ると、家庭科学習の目的は次の通りです。

衣食住などに関する実践的・体験的な活動を通して,日常生活に必要な基礎的・基本的な知識及び技能を身に付けるとともに,

家庭生活を大切にする心情をはぐくみ,家族の一員として生活をよりよくしようとする実践的な態度を育てる。

技術だけでなく、心情や態度をはぐくむ、というのが家庭科学習のポイントになるのかと思いますが、言うまでもなく教えるのが難しいのは後者のほうです。教える側の価値観やステレオタイプが強く出てしまえば、冒頭の話題のようになってしまいます。

 

教える側の力量がかなり問われてしまうというのは、学校における道徳教育の悩みどころだと思います。

togetter.com

こちらの話題もまた辛い話なのですが、かといって一人の若い先生だけに批判があつまるのも違うように思います。

 

上に紹介した論文と同じ著者ですが、『母親の子育て観と家庭科学習内容に対する意識との関係』(2016)というのもあります。正直かなり雑な分析をしたものなのですが、これによると、やはり裁縫やミシン、調理などの項目が、家庭科で学校が教えるべき、との回答が多いようです。

f:id:lazy-planet:20180425164106p:plain

注目すべきなのは、上位を占めるのは、生活に欠かせない「技術の習得」であり、家庭・家族の価値観を教わることを親は望んでいない、ということです。

 

道徳的な意味づけを裁縫や料理、洗濯といった生活技術に結びつけてしまうと、安易な「家族の絆」「母親の愛」信仰に陥りがちになってしまいます。

むしろ、家庭や家族について考える時間は、それらの技術の時間と切り離して、家族観の変遷や国際比較、ジェンダーフェミニズムに対する正しい認識を教えてほしいところなのですが、小学校の先生に、そこまでは期待できるはずもありません。

やっぱりそうすると、下手なことを教えるくらないら、家庭科(道徳)教えないでほしい、という帰結になるのではないでしょうか。

 

教育格差は当然なのか?

以前、こちらの記事が話題になりました。ベネッセと朝日新聞が共同で実施した「学校教育に対する保護者の意識調査」の最新版の結果をふまえた記事です。

www.asahi.com

 

詳しい統計データは、こちらから。

berd.benesse.jp

問題の設問は、次のようなものです。

所得の多い家庭の子どものほうが、よりよい教育を受けられる傾向があると言われます。
こうした傾向について、あなたはどう思いますか。
1.当然だ
2.問題だ
3.やむをえない

 その結果がこのようになっています。

f:id:lazy-planet:20180414064921p:plain

このグラフをどう捉えるか、というところがこの問題の焦点です。

「当然」と考える人は1割ほど、半数は「やむをえない」と回答しており、「問題だ」と考える人も3割います。経年変化を見ると、「当然」の割合が増えており、問題と考える人は少なくなっています。

 

さて、この問いに対してあなたならどう答えますか?

格差の容認か追認か

朝日新聞は、この結果について「教育格差の容認」ととらえています。

特に、高学歴で、経済的ゆとりがあり、都市部に住む保護者ほどその傾向が強い。調査に加わった専門家は「社会の分断が進んでいることの表れだ」と懸念する。

教育格差、「容認」の考えを持つのはどんな保護者?:朝日新聞デジタル

 

f:id:lazy-planet:20180414065655p:plain

たしかに、ゆとりがある世帯のほうがその傾向は強くあるのですが、一方でゆとりがない世帯においても、年々格差を認める傾向が強くなっており、一概に社会の分断とも言い切れない側面があります。

ただ、よく知られているとおり、日本は教育投資に対する私費の割合が国際的にも非常に高い国であり、特に高等教育においてその傾向が顕著です。

f:id:lazy-planet:20180414070240p:plain

https://www.oecd.org/japan/Education-at-a-glance-2015-Japan-in-Japanese.pdf

統計調査を見なくても、体感レベルで習い事や塾にお金がかかるということは分かると思います。学校教育だけで不十分ということは決してないとは思いますし、先生もすごく頑張っていると思われますが、それ以上に私費を投じている子どもとは差が生まれてくるのは、感覚的には当然のように思います。

 

あくまで推定でしかないのですが、教育格差は「当然」「やむをえない」と答えた人の中には、こうした現状を追認する形で答えたのではないでしょうか。

教育投資の私費の割合が高い以上、お金を持っている人のほうが有利という現状は、本来教育は平等に受ける権利があるという感覚を麻痺させているようにも感じられます。

 

f:id:lazy-planet:20210128124251j:plain

教育格差は当然だけど

個人的には、上記の問いに対しては「やむをえない」けど「問題」だ、と答えたいです。つまり、設問の3択が間違っています。教育格差は当然という現状だからこそ、教育の機会均等に予算を振ってほしい、と感じています。

そもそも格差はなぜ問題なのか?という問いを持たれる方もいるかもしれません。

が、格差が生じることは社会的に多くの不利益もたらします。貧困層の増加は、福祉や医療費の増大を生じさせますし、税収の減少にもつながります。富裕層ばかりが得をする社会では、社会全体に不満と不安が満ち溢れ、犯罪率も高くなります。

これらはすべて社会的なコストです。

公的な教育投資は、子ども自身の未来だけでなく、子どもたちの未来の社会をよりよくするために、使われるべきものです。

このあたりの教育の社会的な便益については畠山勝太氏*1がいろんなサイトで論じているところなので、彼に譲ります。

synodos.jp

 

そういえば、うちの子も小学生になってから、二つ習い事を始めています。

また「習い事」についても書きたいと思います。

*1:ちなみに彼は高校時代の同級生・・・。

半強制的な参加で得られる「ご近所」という資源

子どもだけで学校に行くということ

娘が小学生になりました。

ようやくそれが実感できたのは、子どもが「行ってきまーす」と家を出て行って、妻と私だけが家に残されたときです。

子どもの声もなく、静かな二人だけで過ごすリビングで「なんだ、このすごく穏やかな時間は…?」と思ったのが、子どもが小学生になったことを実感した瞬間でした。 

 

子どもが一人でどこかに出かける、ということは今までほとんどなく、夫婦二人だけでいる時間もほとんどありませんでした。

 

今まで保育園に預ける時間以外は、ずーっとべったりと子どもにくっついていたのですが、これから子どもだけでできることがどんどん増えるにつれて、その距離は自然と離れていくのだし、それが成長なんだな、というのを思います。

 

ただ、子どもを遠くから見守りつつも、親は親でその地盤を固めておかないといけない、と感じたのが「ご近所づきあい」です。

ご近所づきあいの必要性

保育園時代は、四六時中親が見ているほかは、ほぼ保育園オンリーにおんぶにだっこしてもらっていたので、あまり必要性を感じませんでしたが、小学生になるとご近所ネットワークにも頼らざるをえない、と実感しています。

大学時代の恩師、落合先生が、1980年代の自身の家族研究の調査にまつわる統計データから、こんなクイズを出しています。

gendai.ismedia.jp

「近所の人たちがつくる育児ネットワークは、都市部と郡部のどちらで盛んだったでしょうか?」 

 

日常のあいさつをする、などの通常の近所づきあいは、大方の想像どおり、郡部の方が盛んだった。しかし、子育てをめぐる近所づきあいに限っては、予想を裏切り、都会の方が盛んだった。

 その理由として、

親族から孤立した核家族は、親と同居の世帯に比べて、子育てをめぐる近所づきあいに熱心だということもわかった。つまり都会に住む、親族に頼れない人ほど、やむにやまれず近所の人たちと育児ネットワークを作っていたというわけだ。

 としています。

親族の力が借りれない分を地域のネットワークを補い、常に定量のネットワークが子育てには求められる、ということから「育児ネットワーク一定の法則」と呼んでいるそうです。

上記のように、都市部で子育てをしている方はよく実感していることと思われますが、転入出が多く、もともとのつながりが薄い地域では、その育児資源を確保するために小学校のシステムが一定の育児ネットワークを作ることを強制しているのではないか、と感じています。

「登下校」時のつながり

まず、「登下校」です。冒頭の場面では、子どもが一人で家を出ましたが、その後近所の子たちと集合して学校に行きます。(その様子を毎日ベランダから見ています)

 

集団登校という決まりがある学校、無い学校いろいろありますが、特に小学一年生の場合、一人だけで学校に行くということはあまり無いのではないかと思います。

そこで、近所の子たち(あるいは兄弟と)と示し合わせて連れだって行くことになるのですが、子どもたち同士だけで約束の時間を決めて行くのではなく、そこには当然、親どうしのおぜん立てが発生します。

誰と、何時に、どこに集まって行くか、といった事前調整を行います。その地域での育児経験が浅い場合、そもそも誰が近くに住んでいるのか?というところからの手探りになります。

 

 

 

「連絡帳」というシステム

登下校にも関連しますが、極めつけがこれです。

「連絡帳」とは学校の先生と保護者の間での情報伝達を行うためのノートですが、その連絡帳を持っていくのは「子ども」です。

連絡帳には、学校からは必要な持ち物、時間割、予定などが書かれ、一方保護者は体調不良、遅刻早退・欠席などの事由を書きます。

でも、自分の子どもの欠席連絡を自分の子どもが連絡帳をもって伝えることはできません。

そこで「近所のいつも一緒に行く子あるいは兄弟」に預けて持って行ってもらう、というのが通例となっています。

遅刻・欠席の電話連絡はなるべく避け、この連絡帳で行うように、というお達しが学校説明会では行われることと思います。

 

とても、前時代的で信じられませんが、この非効率な作業を先生も保護者も受け入れています。遅刻早退・欠席の連絡なんて、クラウドの勤怠管理に近いシステム入れれば、済みそうな話なんですが、それはおいといて、「近所づきあい」が無ければ、この連絡帳というシステムは成り立ちません

これは地域ネットワークの必然性をあえて作るために、やってるものではないかと思われます。面倒なやり取りが発生するシステムをわざと作って、子ども同士、親同士でつながりを作りやすくする、というものです。

 

連絡帳の賛否についてはこれまでもいろんなところで話題になってると思うので、それには触れません。ともかく、このシステムを受け入れる以上は、地域のつながりが不可欠になります。

select.mamastar.jp

 

地域のつながりを得ることで、複数の子どもがいて長年小学校に通わせているベテランの保護者から学校に関する情報を、重要なものから些細なものまで得ることができ、決して悪いことばかりではありません(余計な情報も多く入ってきますが)。

違和感があるとすれば、親の社交性が子どもの学校生活に影響してしまう、というところかと思います。

 

「居住地域」という大雑把なくくりで決められたグループには、良くも悪くもいろんな人がいます。

近しい考えや文化、あるいはルーツを持った人同士のコミュニケーションよりも、それらがバラバラの人同士のコミュニケーションのほうが当然難しくなります。

表面上の付き合いだけなのでそれほど難しくない、というかそれが「オトナ」の付き合いだろうという意見もあろうかと思いますし、それが嫌なら同質性の高い私立に通わせるのが筋なんでしょうが、公立の学校に通う多くの親は、適切な距離を保ちつつお互いを活用するスキルが求められてきます。

よくある「ママ友」の世界ですが、それが避けては通れない感じになってきた、というところでしょうか。

離れた場所で地盤を固める

いまは、子どもたちを少し遠くから見守りながら、その遠くの場所で、子ども同士がなんの遠慮もなくお互い助け合えるような関係づくりの土台を作っているように感じます。

どんなお母さん、お父さんなのか、わからない子どもと一緒に学校に行く、その子に連絡帳を預ける、というのはやはり人によっては不安なものであるのかもしれません。

親同士の仲のよさが子どもどうしの関係性に影響してしまう、というのはあまり健全なものとはいえない気がしますが、だからといってそんなことで子どもの足を引っ張りたくたくないなぁ、というのが本音のところですし、地縁も重要な子育て資源であることには変わりありません。

 

半強制的なPTAによって得られる資源

PTA活動や自治会などの活動自体も賛否はあると思いますが、それらの活動は、自分の労力と引き換えに、こうした地域の育児ネットワークという資源を得ることができます。

うまくできてるというか、このあたりPTAが半強制的でも許されてきた所以なのではないかと思います。参加が半強制的であることで、地縁を作ることに消極的(受動的)な親にもそうした資源を得る機会がもたらされる、というところです。

 

私自身も、これまで団地の自治会長や保育園の保護者会長をやってきて、労力の提供の代わりに得た資源がたくさんあるので、それらを有効活用して、子どもの小学校生活を見守りたいと思います。

(まとまりなくだらだらと書きすぎてしまったけれど、とりあえず。*1

*1:そのうち推敲します)