京大卒の主夫

京大は出たけれど、家庭に入った主夫の話

「いじめは楽しい」か?

いじめは楽しいのか?

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www.huffingtonpost.jp

 

「いじめ」に関する話はとてもナイーブで、個々のケースによることも多いので、あまり深い話が語られることはないかもしれません。

 

一方で、子を持つ親としては当然、心配のタネではあります。

 

自分の子がいじめられる、あるいはいじめるようになってしまったら。

 

子どもの意志は尊重されるべきで、子どもの世界には親が介在しないほうが好ましい場合もある一方で、一種の社会問題と化している「いじめ」の問題については、子ども同士のいさかいというよりも、社会構造や子供の発達心理の観点から、大人が導くべき部分もあるかもしれません。

 

以下、『子どものための精神医学』滝川一廣を片手に、少し、この問題を掘り下げてみたいと思います。

医学書院/書籍・電子メディア/子どものための精神医学

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(※書影はAmazonより拝借)

 

伝統的いじめ

一番分かりやすい「いじめ」はジャイアンです。ガキ大将、親分的な存在がいて、その下にスネ夫のような子分がいて、「のび太」といういじめられっ子をいじめる。

これほど、わかりやすいいじめはないと思います。親や先生の目にも止まりやすく、悪いことをしている、というのはすぐにわかります。

同時に、それは深刻な事態ではないことも表しています。ちゃんと大人も助けることができるし、のび太も「どらえも~ん」と助けを呼ぶことができる、からです。

 

見えにくいいじめ

一方で、今あるいじめの構造は、より複雑なものになっていると考えられています。

いじめる・いじめられるの構造が分かりやすく対立するのではなく、同質的な集団の中で、任意の一人がその的となり、いじめが集団心理によって行われる、という「いじめ」が、現代的ないじめとして問題になっている、と指摘されています。

こうしたいじめの場合、きっかけとなるいじめの主体が見つかっても、まさかこんな深刻な事態になるとは思わなかった、ということが起こります。

いじめの主犯者がいない、からです。

 

社会や文化の同質性は、それから逸脱するものを容易に見つけ出し、排除します。

子どもどうしのコミュニケーションはテレビの影響を受けることはもちろん、大人の社会の縮図でもあります。それゆえ、彼らは「まわりの空気を読むことに長け、その場を盛り上げ、笑いに変えることで取り仕切るような司会者的な芸能人」を、理想のモデルにします。

その司会者自身は、誰も排除していません。場を盛り上げて、みんなが楽しい環境を作ろうと努めています。

ところが、その場の空気が「そのなかで一番面白くない奴」を排除していくのです。

こうして、その場についていけないものは「明日からお前クビな」ではなく、徐々に気づかないうちにフェードアウトして、いなくなっても皆知らんぷりをしている、という状況になります。

いわゆる「干される」という状況ですが、子どもの世界でもそれが無意識のうちに再現されてしまいます。

そうした孤独感や無力感が、物理的な暴力よりもダメージを与えるのに効果的であるのは、社会経験のある大人の方がより実感しているのではないでしょうか。

 

逃げる、という選択

大人は、そういう時に「逃げる」という行動を取ることもできることを知っています。

職場で干されたとき、地域で村八分にあったとき、自分の意志と責任でそこを離れることができます。

しかし、居場所がずっと「学校」であり、地域のつながりも希薄になり、それ以外の「遊び場」や「逃げ場」といったゆとりのない生活環境においては、逃げるという選択肢が思いつきません。

そういった選択肢が与えられれば、きっと救われるケースは多いと思います。

 

 

いじめが激化する理由

そして、いじめが激化する理由は「楽しいから」だけでは説明がつきません。

「いじめ」の主体がいないことで、「いじめ」がエスカレートしても誰も罪悪感に苛まれることはない、という状況において、初めて「いじめ」は限度を超えます。

 

この「いじめ」が限度を踏み外し、「犯罪行為」に類するものや「自殺」までに追い込むものにしてしまう背景を、『子どものための精神医学』の著者は、「無意識の集団心理」と分析しています。

 

限度を超えた事態が起きたとき、「司会者」はおそらく主犯格として捉えられるでしょうが、本人は「そんなつもりはなかった」と答えるでしょう。

 

統計データから

さて今更ですが、現状把握として、統計データを見てみます。

まず、最新のデータから。

平成28 年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」

http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/29/10/__icsFiles/afieldfile/2017/10/26/1397646_001.pdf

 

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平成23年以降、小学校での認知件数が急増しています。単純にとらえれば、「いじめ」の主戦場は小学校に移っている、とも言えますが、学齢の低い年齢ほど「ばれやすい」いじめをしている、あるいは見守りも厚く、目に留まりやすいということも考えられます。

むしろ、高校生の「いじめ」の認知件数が上がっていないことが気がかりです。

「いじめ」に対する意識の高まりから、その監視機能が高まっているにもかかわらず、認知件数が上がらないのは、先に見たような「いじめ」の構造の変化などの要因が考えられるます。

もちろん、学齢とともに精神的な安定が保たれる点では、高校生にもなればいじめは少なくなるのは自然なことですが。

 

つぎに、NHKの統計調査「中学生・高校生の生活と意識調査・2012」です。

https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/yoron/social/pdf/121228.pdf

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「友達がいじめられているのを見て、あなたはどうしましたか?」という問いに対する答えです。「いじめている人を注意した」が15.5%「いじめられている人を助けたり励ましたりした」が32.9%です。

約半数の人が、「何もしなかった」とも言えるし、半数の人は直接的なアクションを起こしている、とも言えます。

対象が中学生以上なので、主戦場からは外れますが、親や学校の目の届きにくい子ども同士の関係性のなかで自浄作用が期待できるのは好ましいことです。

そうしたアクションを起こせる子どもの分母をいかに増やせるか、といったことも一つの社会的な課題のように思います。

それには、大人自身がサイレントマジョリティにならない、という姿勢を見せることが、一個人レベルでできることかと考えます。そうした大人の行動を見て、子どもは育つからです。

 

「いじめ」はどんな状況でも起こりうるものだと思います。家庭環境、経済的環境、身体的要素、障害の有無、などさまざまな個人の努力ではどうにもならない「同質性からの逸脱」は防ぎようがないからです。

仮にそれらの条件がイコールでも、やはり「みんな一緒がいい」は成り立ちません。それぞれが持つ価値観はそれぞれにあるはずで、一律に「面白い」と思える笑いを共有するのはプロの現場でも難しいものです。

「みんな一緒がいい」が成り立たないにも関わらず、それを求めたがる、という病もまた、どうしようもないものなのかもしれませんが、だからこそ「多様性を認めること」の重要性が問われているように思います。

なんだ、結局ポリコレか、となってしまいますが、「ポリコレ棍棒」もまた戦局を逆転させるだけの道具にしてはならない、ということは肝に銘じておきたいことです。

 

お酒に酔った勢いなので、熱い内容になってしまったのはご了承くださいませ。